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ジムニー探検隊NEXT -聖地探訪-
VOL.002
ジムニー探検隊NEXT -聖地探訪- VOL.2
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ジムニー探検隊NEXT -聖地探訪-
『大甕神社』 茨城県日立市

日本には「最強パワースポット」と謳われる場所がいくつも存在するが、茨城県内にはそれが二カ所もある。今回訪れた『大甕(おおみか)神社』は、最強を越える最強と言われる聖域だ。

文・写真/山崎友貴

なぜの多い不思議な成り立ちの神社

武葉槌命を祀った社殿。この写真だけ見ると、フツーの神社に見えるが…。

我々は歴史の授業を受けてきたが、昭和生まれと平成生まれではその内容が異なることは周知の通りだ。歴史というのは、時の権力者が編纂した歴史書に基づいているものに過ぎず、本当の所はどうなのか、大東亜戦争末期のことでさえよく知られていないくらいだ。

7世紀以前の日本史は、学術的にはほぼ確立されておらず、古墳時代などは国家がどうなっていたのかもよく分かっていない。中国の歴史書では、日本が朝鮮半島に進出してしたことが分かっているが、歴史の時間だと「三韓」と「任那」のことに少し触れられるだけで終わってしまう。

このように、実は日本というのはまだまだ未知の部分が多い。セオリーでは、縄文時代は原始人の文化的な扱いを受けているが、昨今では東北地方にすでに「日高見国」という国家が存在し、渡来してきた「ヤマト国」との間に長年争いがあったことが分かってきた。これを言うと学会では異端扱いとなるわけだが、この大甕神社の由緒にもそれがしっかりと記されている。

さて、その辺のことは後に回すとして、大甕神社のことである。この神社は皇紀元年(紀元前660年)に創祀されたことになっている。日本では神武天皇が即位した年であり、ローマ帝国が建国してから94年目にあたる。日本史的には縄文時代だ。

おかしなもので、日本の歴史学者は日本人を未開の民族にしたがるが、縄文時代にこうした祭祀の場が設けられていても、世界的な文化水準から考えれば不思議ではない。

それはさておき、この神社の祭神とエピソードがおもしろい。大甕神社の祭神は主神が「武葉槌命(たけはつちのみこと)」、地主神が「甕星香々背男(みかぼしかがせお)」ということになっている。

高天原に住む天津神たちは、日本に降臨する際に先発隊として「武甕槌神(たけみかづちのかみ)」と「経津主神(ふつのぬしのかみ)」の二柱を葦原中国に遣わした。しかし二柱は、「葦原中国に向かう前に、甕星香々背男は邪神だから鎮めなければならない」と言われたが、征服できずにいた。そこで武葉槌命に命じて、甕星香々背男を鎮めさせたというのが言い伝えだ。

読めば普通の神話に感じるが、この日立市という場所と、神々のプロフィールを知ると、俄然この神社が不思議な場所に思えてくるのである。

風と光が気持ちいい常陸の国

海食崖が美しい高戸小浜。近隣はすべて砂浜なのに、ここだけこのような光景が広がる。近くの洞窟の中から見る景色も一興だ。

大甕神社に向かう前に、以前より訪れてみたかった「高戸小浜」に立ち寄る。大甕神社よりも北に上がり、常磐道高萩ICで降りてすぐ。この辺りはほとんどが砂浜だが、ここだけ海食崖に囲まれた場所になっており、「日本の渚百選」に選ばれた。

その名の通り小さな砂浜だが、近くにある洞窟に入れるなど、なかなかアドベンチャーな場所だ。この場所が珍しいのは、南北にふたつの入り江があることで、北側の荒々しさと南側の静かさが実に対称的。晴天の日に、ゆっくりとコーヒーでも飲みながら、磯を楽しむのにうってつけな場所だ。無料駐車場も完備されている。

もうひとつ立ち寄りたかったのが、JR常磐線「日立駅」だ。2011年に建てられた駅舎は、日本を代表する建築家・妹島和世氏によるもの。妹島といえば「金沢21世紀美術館」や西武鉄道「001系列車」の設計などで知られる。

妹尾和世氏が設計した日立駅。南側のコンコースから見る太平洋が評判になっているスポットだ。

この日立駅も未来感溢れる無機質なもので、南から西にむかってL字に突き出した四角柱形の構造物が目を惹く。内部は駅舎というよりは美術館に近く、改札口よりも海側に造られたコンコースが、この建築のハイライトになっている。

L字建築の中にある飲食店はちょっと残念感が漂うが、建築好きならぜひ訪れていただきたい場所だ。駅に駐車場も設けられており、近隣にコインパーキングもあるので行きやすい。

昼食なら、「道の駅日立おさかなセンター」をおすすめする。昨今は、海沿いでも新鮮な魚が食べられるわけではないという残念なことになっている。さほど期待もせずに行き、もっとも小さくて古ぼけた「丸佑」という店に入ってみた。中に入ると、地元の常連ばかりだったので、これはアタリかもしれないという感触。

道の駅日立おさかなセンターで食べた海鮮丼。生魚も旨かったが、しらす干しが臭みがなく絶品だった。

「魚の値段が上がっているので…」という前置きで、1500円の海鮮丼を頼んでみたが、その鮮度はまさしく地魚。地元で獲れたしらす干しも絶品で、むしろ1500円はリーズナブルだったと言える。ここは、好きなネタを買って丼を作るのが名物だが、むしろこちらにして正解だったかもしれない。

お腹も十分満たしたので、いよいよ関東最強のパワースポットへと向かう。

ナゾの神話が由緒のベースにある神社

水戸光圀の命によって、宿魂岩に祭祀し直された甕星香々背男。その理由はいったい何だったのだろうか。

大甕神社が、なぜ最強パワースポットなのかにはワケがある。前述した通り、武甕槌神と経津主神は天上界最強の武神だったが、その二柱をもってしても甕星香々背男を制することができなかった。

ちなみに武甕槌神は「鹿島神宮」の、そして経津主神は「香取神宮」の祭神である。日本の道場では、武道の神として八幡神と共に三柱が祀られるくらいなのにである。

甕星香々背男はその名の通り星の神様で、それはすごい霊力を持っていたとされる。しかし、天津神であるのに邪神とされたところも不思議だ。しかも、その名に「神」も「命」も付かないのはなぜだろうか。天照大神と同族でありながら、異端なのである。

さらに、武神に鎮めることができなかったのに、説得できたのは織物の神である武葉槌命だったのも合点がゆかない。ちなみに武葉槌命は、天照大神が天岩戸に隠れた時、織物を持って岩戸の前で待っていたという。不思議な役割である。

ちなみに香取神宮では、いまでも「星鎮祭」という神事が行われている。ここまで恐れられていた甕星香々背男とはどんな神だったのか。大抵の場合、神話は史実をなぞったものであり、甕星香々背男は最後の日高見国の強敵と見える。しかし、鹿島神宮や香取神宮が創建された立地を考えれば、もっと複雑な政治的背景が見えてくる気がする。

大和政権が成立したのは、近年では4世紀から6世紀と言われているが、この時期は様々な豪族、民族が日本で入り乱れた時期とも言える。同時に、宗教も多様化しており、6世紀半ばに仏教が伝来したとされる以前から、日本には渡来人によって信仰されていたと考えられている。

実は日本神話に甕星香々背男が登場するのは、前述の下りだけで、星の神というのはいくら調べても見つからない。では仏教ではどうかというと、妙見菩薩がそれにあたるのである。妙見菩薩は北極星、北斗七星の仏で、ちょうど飛鳥時代に渡来人によって伝えられたという。

この時期は、物部氏、蘇我氏、そして中臣(藤原)氏が激しい権力争いを繰り広げていた時期である。一般的に彼らは別々の氏族であるという認識だが、実は天皇家を取り巻く親戚同士のようなものだ。何代にもわたって婚姻関係があって、血のつながりは後世へと受け継がれた。滅んだのは名前だけで、血は続いていたわけだ。

常陸国というのはこの時、様々な氏族が入り乱れていた地域だった。蘇我氏、蘇我氏の傍流である石川氏、物部氏の傍流、中臣氏、そして秦氏。豊かだった日高見国の境界にあって、その最前線だった常陸国は、ヤマト国にとって重要な場所だったに違いない。そして神や仏の霊力が当たり前に信じられた当時、神や仏は畏怖するものだった。

私見だが、甕星香々背男は妙見菩薩だったのではないかと思う。同じ天上界の存在ながら、日本の神とは違う存在の仏。だから日本書紀では邪神と記されているのではないだろうか。

それを秦氏と思われる武葉槌命に、天津神に屈するよう説得されたという寓話。飛鳥時代に朝廷で起こった政争が思い浮かぶ。想像力を働かせれば、また違うストーリーも浮かび上がってくるが、この最強と言われるパワースポットのロマンは尽きない。

頂上の社までは鎖を使って登る。登山愛好家にはテンションが上がるシーン。

大甕神社は、造りも謎に満ちている。元々あった岩の地形に手を加えたような小山があり、これが甕星香々背男を封じ込めた「宿魂岩」である。岩の前には拝殿が造られ、ここには武葉槌命が祀られている。だがこれは江戸時代に水戸光圀の藩命によって岩の上に甕星香々背男を祀る社が建てられたのであって、それまでの「古宮」はもっと北側にあってただの社であったようだ。

山頂の社とは別に、北側の麓に拝殿がある。ここには五芒星(安倍桔梗)が彫られや神額があり、人々がいかほどに甕星香々背男を畏れたかが窺い知られる。ちなみに、日本に陰陽道を持ってきたのは秦氏だ。

宿魂岩の上には甕星香々背男の荒魂を祀る社がある。鹿島神宮、香取神宮を超えるというパワースポットだ。

平将門は妙見菩薩を軍神として崇めた。関東一円を呪いにかけたと言われる将門の霊力が妙見菩薩と重なり、そして甕星香々背男と繋がる。将門の呪詛を畏れた江戸幕府を守るため、光圀が宿魂岩にさらに封じこめた…というのはロマンがありすぎるだろうか。ちなみに江戸城から見ると、大甕神社は完全に鬼門の方角になるのがおもしろい。

丁寧に参拝をして、お守りを買って帰路に就く。この日、二柱の神に祈った願い事はその日にかなったことを、余談ながらお伝えしておく。