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ジムニー探検隊NEXT
VOL.009
ジムニー探検隊NEXT /// VOL.9
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ジムニー探検隊NEXT -祭り、その街-
『松明あかし』福島県須賀川市

冬になると各地で行われるようになるのが、火を使った祭りだ。火は人々に暖を与えるだけでなく、厄災を除け、鬼籍に入った魂を慰める。11月上旬に福島県須賀川市で開催される「松明あかし」は、各地で行われる火祭りの中でも伝統的なものだ。


文・写真/山崎友貴 協力/松明あかし実行委員会、須賀川市観光物産振興協会 

過去と現代が融合する街『須賀川』

一般的に、白河市からいわゆる東北が始まると言われているが、地理的に言えば須賀川市は白河の近隣に位置する街で、東北地方の入口にあると言っていい。福島県内の言い方をするなら、「中通り」ということになろう。東京から見ると白河の次だが、東北では「郡山都市圏」になるという。

奈良時代から東北の要衝として栄えた場所だが、地域が成長したのは鎌倉幕府の御家人・二階堂氏がここに領地を得てからのようだ。二階堂氏は「鎌倉殿の13人」のうちの一人で、頼朝時代から源氏、北条氏を支えた有力御家人。今も鎌倉には、二階堂の地名が残っている。

鎌倉時代から室町時代末期まで二階堂氏がこの地を治めたが、天正になるとかの伊達政宗が侵攻し、須賀川二階堂氏は滅亡する。以後、江戸期になると白河藩領となり、ここに奥州街道随一の宿場町が開かれた。

このように須賀川は非常に歴史のある街なのだが、東北道を降りて中心地区に入ると、その新しさに驚く。中心街はかつて須賀川城があった台地の上にあり、この台地を取り巻くように住宅街が広がっている。

目抜き通りは最近整備されたばかりなのか、平成・令和の雰囲気に溢れていた。須賀川出身の著名人が円谷英二という縁で、目抜き通りにはウルトラマンシリーズのキャラクターたちが訪れるものを迎えてくれる。

街の中には、「須賀川市×M78星雲 光の国 姉妹都市提携」といった看板も見受けられる他、『円谷英二ミュージアム』という施設も造られており、多くの特撮ファンが聖地巡礼を行っている。

どこに行っても綺麗な建築ばかりだが、その合間合間に巨大な甍を持つ古刹がいくつもあるのもまた、須賀川の懐の深さと言える。もしこうした寺院がなければ、新興住宅地なのかと早合点してしまうかもしれない。

街が新しいからか、若い人が多い。生活インフラが整備されていることも理由なのだろうが、過疎で悩む地域が多い東北において、須賀川は非常に活き活きしているように感じられる。本来、福島県人は忍耐強く人当たりがいいと言われるが、須賀川の人々もまた柔和な人が多く、滞在中はどこでも非常に居心地が良かったのが特筆すべき点だ。

二階堂一族の霊を慰める松明

須賀川で残念なのは、これといった観光資源がないことだ。あえて書くなら、「須賀川牡丹園」だろうか。ここは、牡丹園としては全国で唯一、国指定の名勝になっている。昨今人気の「古い町並み」などというのもない。

そんなこともあって、円谷プロとのコラボレーションにも積極的なのだろう。地元の人に聞いたところ、「観光資源がないから、とにかくイベントが多い」という。大小のイベントが毎週行われており、主要なものだけでも年間15件ものの催事が行われている。

「松明あかし」もまた、そのひとつに数えられる。11月第2土曜日に開催されるこの祭りは、久留米市の「大善寺玉垂宮の鬼夜」、太宰府天満宮の「鬼すべ神事」と並んで、日本三大火祭と言われることがある。

祭りの発端は、前述の二階堂氏滅亡の際に城下の人々が鎮魂のために松明を灯したことだという。余談になるが、二階堂氏が滅亡した時の須賀川城主は大乗院という女性で、この人は伊達政宗の叔母に当たる人であった。須賀川に攻め入る前に政宗が滅ぼした芦名氏は大乗院の孫婿になり、つまり一連の合戦は親戚同士の骨肉の争いだったわけだ。

永きにわたって須賀川を治めた二階堂氏は女領主・大乗院というヒロインの存在もあって、滅亡後も領民たちに慕われた。この祭りは新しい領主の治世になってからも行われ、領民たちは目を憚って「ムジナ狩り」と称して松明を灯し続けたという。そして令和の今も、盛大に行われている。

ちなみに松明とは言っても、いわゆる手で持てるトーチ的なサイズのものではない。高さ8~10m、直径1~2m、重さ1~3tという超ビッグサイズで、これを中心地にある五老山に20~30本立てることで、須賀川城に見立てているのだという。その様子を想像するだけで、胸が躍ってしまうのは筆者だけではないだろう。

勇壮かつ静かな炎が胸を打つ

祭り当日の午後になると、各グループが作った巨大松明が目抜き通りを人力で運ばれていく。何十人もの人が神輿のように担ぎ、五老山山頂まで運ぶのである。なにせ最大3tもあるのだから、人が多くても担ぐのは大変だ。先導役のかけ声と太鼓の音に合わせて、まるで巨大な武器のように街中を進んでいく。

午後5時半。かつて須賀川城本丸があった所に建てられている「二階堂神社」から、御神火を携えた一団が出発する。神職から奉受された御神火はトーチに移され、十数名がそれを五老山まで運ぶのである。すでに闇に包まれた須賀川の街を、御神火が粛々と進む様子を見ていると、それだけで厳かな気持ちになっていく。

御神火は五老山山頂にある小さな松明に移された後、そこからさらに小さな火に分けられていく。そして午後6時半、いよいよ大松明に点火。小さな火は、たちまち直径2mの木口の巨大な炎へと変貌する。

中にはなかなか点かない松明もあり、それもまた手作りゆえのご愛敬というところだろう。山の麓では豪快な松明太鼓が打ち鳴らされ、それが炎の宴をさらに盛り上げる。点火から10分も経った頃には、五老山に火の城が浮かび上がる。須賀川城が落城する際も、このような光景だったのだろうか。

1時間を過ぎよう頃から、轟々と音を立てながら崩れ落ちる松明が現れ始めた。無数の火の粉を飛ばしながら、大松明は地面を焦がす。何とも無常観漂う瞬間だが、「勇壮な炎の舞」の後の「静かな火の終焉」。このコントラストが、何とも言えぬ感動を心に残すのである。

午後8時になる頃には、多くの大松明は短くなってしまうが、十日山の観覧場所から見る炎はまだまだ明るい。やがて炎は火へ、そしてついには鎮魂の光となって空に消えていくのである。