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ジムニー探検隊NEXT
VOL.008
ジムニー探検隊NEXT /// VOL.8
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ジムニー探検隊NEXT -祭り、その街-
『田立の花馬』長野県南木曾町

長野の木曽と言えば、有名なのは木曽ひのき、そして木曽馬だ。日本の固有種で、軍用や農耕馬として古来から重宝されてきた。そんな木曽馬が主役となる、なんとものどかで美しい神事があった。


文・写真/山崎友貴

面積の94%は森林という長野の奥地

全国に先駆けて町並み保存条例を制定した妻籠宿は、老朽化した建物を修復し、後世に残せる状態で保存している。

「南木曾」と書いて、“なぎそ”と読む。長野県の南西部にある町で、そこはもう岐阜に近い。中央道駒ヶ根ICを降りてからほぼ木曽川に沿って進み、1時間以上かかる山間の町だ。

南木曾には有名な観光スポットがあるが、それは妻籠宿という旧中山道の宿場町だ。江戸期から明治期の建造物が多く残り、全国的も有名な場所だが、全国に先駆けて街並みの保存に努めてきたことはあまり知られていない。

それが功を奏して、町の姿はほぼ江戸時代と同じだ。早朝であれば町の中にクルマで入れるので、ゆっくりと流してみた。まだ人気のない宿場を走っていると、まるでジムニーごと江戸にタイムリープしてきた気になる。

妻籠宿は中山道と飯田街道が交差する追分にあり、まさに交通の要衝だった。旅人が身体を休めるというのが主目的だが、宿場内に「枡形」があることから、幕府にとって軍事的に重要だったことも分かる。

枡形とは道が直角に曲がった場所であり、本来は城内に造るものだった。中山道を敵が進軍してきた場合、直角に曲がらせることで人馬の進みを遅らせる目的がある。宿場内で戦闘になった場合は、ここで敵を討ち取るための地形にもなる。

山深い、という言葉がぴったりの南木曾の山並み。そのほとんどは森林に覆われており、木曽でいい材木が産出されてきたことがよく分かる。

江戸に入ると一国一城が定められたこともあり、宿場は各藩にとって軍事的に重要になった。いざとなったら、ここが防衛ラインとなるからだ。多くの宿場は坂道の途中にあり、中に「鍵の手」や「枡形」といった仕掛けを見ることができる。また、宿場内に必ずと言っていいほど、寺院があるのは、ここを防衛拠点にするためだ。大抵は屋根が銅板葺になっており、これを溶かして鉄砲の弾にするらしい。

話は逸れたが、南木曽町にはこの他にも「三留野(みどの)宿」がある。だが見所と言えば、それ以外に目立ったものはない。ただ、町の94%を占める森林と、木曽川の巨石は見所だ。木曽と言えば、ひのきなどの巨木が有名で、かつては城の心柱は木曽の巨木と決まっていた。

山間で耕作地が少なく、特産品といったら木材、そして今回の主役である「木曽馬」だったのである。

絶滅から復活した本州唯一の在来種のウマ

標準的な体型の木曽馬。海外の馬に比べると、脚が短いのが特徴だ。それゆえ、丈夫で農耕に向いている。

木曽馬(木曽駒とも)は長野県木曽地域、岐阜県飛騨地方で飼育されている馬だ。元々は蒙古(モンゴル)の馬で、朝鮮半島から伝わったとされている。日本には現在8種類の在来種の馬がいるが、本州の在来種は木曽馬だけである。

平安時代から江戸時代までは武士の馬として活躍し、特に鎌倉、室町、戦国時代の重要な戦局で活躍したのは木曽馬だと言われている。よく戦国時代を舞台とした映画・ドラマなどで馬が出てくるが、大抵は輸入種だ。しかし、実際には一回り小さい木曽馬だったのである。

性格は温厚で、実によく人の言うことを聞いてくれる。メスは特に温厚な性格のようだ。

ポニーのような大きさを想像する人もいると思うが、実際はそれほど小さくない。体高(肩までの高さ)はメスが133cm、オスは136cmが平均となる。昔の成人男性の平均身長が150cmくらいだったことを考えれば、甲冑を着て乗るのにちょうど良かったのかもしれない。

木曽馬は農耕馬として一般に広がっていったが、その需要がなくなったことから、やがて木曽馬は絶命寸前にまでいたった。何とか保存会の尽力によってそれは食い止めたが、現在でも約150頭しかいないというから驚きだ。しかも、100%の純血種はもはやこの世には存在しないのだという。

美しく飾られた馬の憂鬱

田立の集落内をゆっくりと進んでいく花馬。背中の“花”が秋の里に映える。

今回紹介するのは「田立の花馬祭り」だが、実は南木曽町からほど近い岐阜県中津川市の「坂下の花馬祭り」の方が古いと言われている。そもそも花馬祭りは、木曽義仲が平家追討を果たし、朝廷から征夷大将軍に任命されたことに端を発する。

中津川もまた木曽義仲の地元であり、この報を受け取った坂下の住民は馬の鞍に弊を付けた矢を立てて、村中で神社を参拝して報告した。これが花馬となったわけだが、その後は農民が五穀豊穣を祈る行事となったという。

馬に飾られる花には、五宮神社の弊が付いており、玄関に飾ると魔除けの御利益があると言われている。

田立の花馬祭りは、それから400年以上あとの1717年に始まったとされる。この年は大干ばつとなったため、雨乞いの行事として12頭の花馬を出して村内を回った。やがて田立の5社の神社が合祀されて五宮神社になると、花馬は坂下と同じ3頭になったという。「3」という数字が何とも意味ありげだ。

さて、馬の背中に飾るものは、きちんとしたプロトコルに沿っている。先頭の馬には神が宿る「神籬(依り代)」を、中馬には豊作を表す「菊」を、後馬には南宮社社紋の日月の幟を立てる、そしてその周りに、五色の色紙によって稲穂象った竹を365本挿していく。

鮮やかに飾られた花馬は、昼過ぎに田立駅を出発し、村内を五宮神社に向かって進む。馬の前には地域から選ばれた若い男女が笛と太鼓を奏で、その後を3頭の馬がのんびりと歩くのである。

この神事は、花の取り合いによって最高潮となる。これが馬にとっては、最高に嫌なことのようだが…。

朝に強く降っていた雨は奇跡的にあがり、まるで神が花馬の訪れを待ち望んでいるかのようだった。ところが馬と言えば、出発から元気がない。神社が近づくにつれてグズるようになり、あと100mという所に来ると動かなくなった。

それには実は理由があったのである。花馬は神社に入ると境内を3周周り、神に五穀豊穣を祈る。その後の太鼓の合図と共に、そこにいた人々が馬に向かって殺到するのである。花馬に飾られた花は、家の玄関に挿すと魔除けになると言われているからだ。特に神籬を取った人は、最大の幸福があるのだ。

この群衆が群がる恐怖が、馬にはトラウマなのだ。最後の1周をする時、馬は涙を流して嫌がり、それを見て人々は胸を痛める。華やかで素朴な神事だが、ちょっと切なさが残る花馬祭りだ。