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ジムニー探検隊NEXT
VOL.005
ジムニー探検隊NEXT /// VOL.5
ジムニー探検隊NEXT /// VOL.5

ジムニー探検隊NEXT -祭り、その街-
『伊雑宮・御田植祭』三重県志摩市

日本で格式の高い神社といえば、紛れもなく伊勢神宮の名が出てくるはずだ。その伊勢神宮に備える神饌を集める場所として創建されたのが、志摩市にある「伊雑宮(いざわのみや)」である。その神社の神事は、やはり日本人には欠かせない食べ物に関わるものだった。


文・写真/山崎友貴

リアス式海岸と島の土地「志摩」

伊勢志摩と言えば、2016年5月にG7サミットが開催された場所として、まだ記憶に新しい。伊勢志摩という言葉は一般的になったが、これは伊勢神宮と志摩半島に限定した地域を指すらしい。

今回の舞台になるのは、志摩市だ。つまり志摩半島である。志摩半島は小さな入り江が入り組んだリアス式海岸の地として知られている。あまりに沿岸の地形が複雑なため、伊能忠敬が測量を行うのに大層苦労したようである。

内海になった場所が多いことから、ノリ、カキ、真珠、アオサなどの養殖が盛んで、非常に食が豊かな土地として知られる。飛鳥、奈良時代には「御食国(みつけくに)」として、皇室と朝廷に海産物を献上した土地のひとつであった。

伊勢志摩には、走るには絶好の道が多い。特に「伊勢志摩スカイライン(現e-POWER ROAD)」は最高だ。宇治山田側からゲートをくぐると、軽快に走れるワインディングロードを登り続ける。今回の相棒であるAPIO TS4は、ハイフローターボ装着とECU書き換えを行っている車両なので、おもしろいように急峻な山道を駆け抜ける。

一宇田展望台では、伊勢市街のパノラマが一望できる。ここから観ると、伊勢市が実に都会なことに驚かされる。朝熊山頂展望台を越えると、いきなり眼前に志摩の美しい海が広がる。この日はあいにくの天気だったが、晴天ならきっと紺碧の海が望めるはずだ。 

「パールロード」もまた、走って気持ちのいい道のひとつだ。見晴らしスポットもいくつかあるだけでなく、賢島方面まで軽快に走ることができる。

伊勢志摩はとにかく海岸線が美しく、どこを走っても静かな海面なのが特徴だ。やはり複雑な地形ゆえに、内海と変わらないのだろう。朝夕の時間帯は、まるで海が鏡のようになって、異世界のような空間となる。ジムニーのエンジンを切ると、辺りには静寂が戻り、音のない音が身体に心地いい。 

海と島、そして山が人々の生活に非常に近い、それが志摩というクニなのだ。

伊雑宮という特別な伊勢別宮

冒頭で記したが、志摩市にある伊雑宮は、伊勢神宮に備えるための神饌を集積するための神社であったという(諸説あり)。この地が朝廷の御食国であったことを考えれば、それも頷ける。伊勢神宮によると創建は約2000年前だという。

祭神は「天照大神御魂」となる。伊勢神宮に天照大神が祭祀されているので、ここには御魂が御座すということなのだろう。しかし、これは明治以降の話で、それ以前は伊佐波登美命と玉柱命の二柱、玉柱命のみが祀られたなど、諸説ある。

境内はさほど広くないが、さすが伊勢神宮の別宮だけあって、やはり神々しさは格別である。凜と空気が張り詰めた参道を100mも歩くと、伊勢神宮のような様式の社殿が建つ。さらに横には同じ広さの土地、いわゆる「古殿地(新御敷地)」があり、ここでも伊勢神宮と同じく式年遷宮が行われていることが分かる。

ここは海山から神饌が集まることから、古来より海女さんや漁師から崇敬を集めてきた。こうした背景もまた、いかにも志摩という土地柄を表している。

社殿の南側に、今回紹介する神事が行われる御料田(ごりょうでん)が広がる。この地域は磯部地区と呼ばれており、その名から「磯部の御神田(おみた)」と言われている。

御神田は田んぼ三枚程度の狭いものだが、周囲は広大な水田地帯だ。神社が創建された当時は、この磯部でしか米が獲れないという貴重な場所であったようだ。たしかに周囲を走ってみると、志摩半島はほとんどが起伏に富んだ地形で、平野部というのがほとんどない。この磯部も周囲を低い山に囲まれているが、この辺りだけ珍しく平らだった。

地図を見てみると、伊雑宮がある辺りは神路川と野川に挟まれた扇状地で、水が引きやすい上に肥沃な土地であることが分かる。しかも海が近く、物流拠点に適した場所でもあったのだろう。いわば伊雑宮は、伊勢神宮の台所というべき神社なのである。

伊雑宮に行ったら食べたい2つのグルメ

志摩は海の幸の宝庫で、地魚などが非常に旨い。ただ、伊雑宮の近隣で何か旨いものが喰えないか探したら、なんと伊雑宮の鳥居の前にあった。それが「う御料理旅館 中六」だ。かつては旅館を営んでいたようだが、今は鰻専門店となっている。

調べたところ、中六という名前は伊雑宮の御師であった中六太夫から取っているだという。

磯部の上流では昔から鰻が獲れることから、この辺りは名店と言われる鰻店が多い。この中六もそのひとつ。ご存じの通り、関東では蒸してから焼くが、中六の鰻は蒸さない関西風。だから表面がカリッとしていて、中は弾力性がある食感だ。タレは辛口で、これが実に美味い。

御田植祭当日は弁当のみの対応だったが、普段は丼で食せる。価格は鰻の枚数で異なってくるが、最高の5切れでも2770円(肝吸い付き)なので、実にリーズナブルだと言えよう。ちなみに弁当を冷えてから食べたが、それでも絶品だった。鰻好きなら絶対に寄りたい店だ。

2つ目の旨いものは、御田植祭に関したグルメ。その名も「さわ餅」。神社の近くにある「竹内餅店」という店のオリジナルなのだが、これを楽しみにしてくる客も多いようだ。

詳細は後述するが、御田植祭りの中には「竹取神事」というものがあって、そこで使う竹をモチーフにして創った餅だという。白と緑の二色の餅で、薄く伸ばしたものを折り曲げてこしあんを包んでいるシンプルな和菓子。祭りの出店や近くの酒屋で売られていたので、試しに買って食すと、これが何とも旨い。

赤子の頬のような食感、あっさり上品なこしあん、これが相まってクセになる味に仕上げている。祭り当日はあっという間に売り切れてしまったが、店に行けば他日でも買えるようなので、これもぜひお試しいただきたい。

日本の美しさを体感できる伝統の神事

伊雑宮の御田植祭は、千葉県の香取神宮、大阪府の住吉大社と並ぶ日本三大御田植祭のひとつに数えられる。垂仁天皇の皇女・倭姫命が伊勢神宮に供える神饌を探していたところ、昼夜鳴く1羽の白真名鶴が稲穂を咥えていたという伝説が、その起源と言われている。

神事がいつから始まったかは定かではないが、平安末期から鎌倉期始めと言われているので、源平時代に始まったのであろう。

祭りは5月初旬から準備に入り、神事の役人に選ばれると前日に海で身を清める「潮垢離(しおごり)」を行って整える。役人は9つの地区から輪番で選ばれ、各地区に7年一度順番が回ってくるのだという。

これが終わると、やがて田道人と早乙女が御神田に入って来る。早乙女とは地元の小中学校から選ばれた少女が扮する役人で、顔を白塗りにして笠と田植え浴衣で着飾った様は、まさに白真名鶴を連想させる。

朝8時10分。御神田に二人の男が現れる。これは朳(えぶり)・田道人(たちど)と呼ばれる役人で、「七度半の使い」という神事のひとつなのである。七度半の使いとは、神事などで丁重な使いを出すことを意味するが、7と5というのが古来からの日本の時の観念なのだという。七度半とは言うものの、実際は三度半であり、これにもなにか意味があるようだが解明できなかった。

田道人と早乙女と交互になって手を繋ぎ、苗を置いてある御神田の苗代を、やはり三度半回る。これを「早苗取り」の神事という。これが終わると、田道人と早乙女は畦に一度退場する。代わって登場するのが、力士のような男達。

褌を回し、上半身は全裸の男が行うのは、御神田の中心に立てられた「ゴンバウチワ」を奪い合う「竹取神事」というもの。ゴンバウチワには、「太一」の文字が書かれた帆掛け船が描かれている。ちなみに、太一とは天照大神を表す言葉。帆柱の上の宝珠は「青の峯のキンノタマ」と呼ばれ、海上安全と豊漁をもたらすものと考えられてきた。

やがて男達は御神田の中で相撲などを取り始めるが、これは恐らく代掻きのためでもあるのだろう。ひとしきり暴れ終わると、今度はゴバンウチワを倒して、御神田の中でグルグルと回り始める。この竹は、近くの川で泥を洗い流した後にバラバラにし、希望者にお守りとして分け与えられるのだという。

竹取神事が終わると、いよいよ御田植え神事が始まった。再び御神田の中に、田道人と早乙女と入る。彼らは横一列に並び、東の端まで水田の中をゆっくりと進む。そして、田植え囃子と「サザンザ節」という歌に合わせて、田道人と早乙女は苗を植えていく。

この時、早乙女は着物の裾が汚れぬよう、裾に小石を巻き込んで帯に入れ込む。この小石は田道人が七度半の使いの時に拾うもので、神体化した小石を早乙女が身に付けることで、早乙女が神の依り代になるという説がある。別な説では、田道人が早乙女に小石を渡すのは求婚、一緒に田植えをするのは神婚であるという。

田植えの最中は、太鼓(おど)、小鼓(こど)、笛方、謡い方によって、歌舞が行われる。田道人と早乙女の後方に、小さな田舟に乗った稚児が太鼓をたたき、その両脇に二人の少年が差鳥差(さいとりさし)の舞を奉納する。この船に乗った稚児は、少年が女装したもので、天照大神を模しているのだという。少年が依り代になるというのが、他の神事でもあることだ。女装の理由についてはいろいろ考察されているが、これも謎めいたプロトコルのひとつだ。

ただ、田道人と早乙女が苗を植え、少年が謡い、船に乗った天照の依り代が太鼓を叩く様を見ていると、これが浮世の出来事とは思えなくなってくる。水田の水面に彼らの姿が映っているのを見ていると、実はこれは天上のことなのではなかろうかと錯覚するのである。

昼頃には田植え神事は終わり、その後田道人と早乙女は御神田から鳥居までのわずかな距離を、2時間という時間をかけて「踊込み」という神事を続ける。そして、境内で舞を奉納して、御田植祭はフィナーレを迎えるのである。

米食がメインの日本人にとって、田植えというのは食生活の「始まり」だ。さらの農作物だけでなく、水産物の豊漁を願うこの神事は、まさに五穀豊穣を神に願う敬虔なものに違いない。1000年近くも粛々と続けられてきた、神の田植え。そこには、様々な価値観を持つ日本の美しさそのものがあった。