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ジムニー探検隊NEXT
VOL.004
ジムニー探検隊NEXT /// VOL.4
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ジムニー探検隊NEXT -祭り、その街-
『鶴岡天満宮・化け物まつり』山形県鶴岡市

日本には、奇祭と呼ばれる祭りがいくつかある。山形県鶴岡市で行われる「化けものまつり」もまた、そのひとつだ。化けものといっても、魑魅魍魎が出てくるわけではない。それは日本全国で愛される天神様の哀しい物語に基づく、かなりユニークな祭りだった。


文・写真/山崎友貴

人も文化も豊かな鶴岡というクニ

致道博物館の中にある「旧鶴岡警察署庁舎」。和洋折衷の様式が美しい。致道博物館には、この他にも歴史的な建造物が集められて、保存されている。

その土地は、実に“豊か”だった。見渡す限りの水田が広がり、遠くには美しい出羽三山の山並みを望む。街には派手さはないが、随所に歴史と誇りが感じられた。


鶴岡は歴史のある場所だ。それは遙か古墳時代にまで遡るが、施政者が登場したのは鎌倉期に入ってからとなる。皇室の荘園である大泉荘がこの地に成立し、武藤氏や上杉氏が地頭として治めた。


江戸期に入ると、今年の大河ドラマに登場する酒井忠勝が施政者としてやってくる。以降、庄内藩の城下町として鶴岡は栄えることになる。しかし、1800年頃は財政にも困るような状態に陥り、9代目藩主忠徳が藩校を創設して、人材の育成に努めた。


江戸期にはどこの藩も財政難に陥り、農民に重税を課して一揆が起きたといったエピソードが珍しくない。しかし、この鶴岡では真逆のことが起きた。1840年、幕府は陰謀によって当時の藩主である酒井忠勝を転封する意向を決めた。これは、川越松平氏に豊かな領地を与えるためのものだったと言われる。


しかし、庄内藩は藩主、家臣、領民の絆が非常に強い極めて希有な土地柄で、これを聞いた領民は怒り、反対運動を展開。いわゆる「天保義民一揆」を起こし、幕府のこの方針を撤回させたのである。
さらに戊辰戦争では、全軍の約半数である2000人が町民、農民の志願によるもので、激戦を最後まで続けたのは庄内藩だった。さらに戦いで負けた酒井忠宝が他の地に移転となった時も、家臣と領民が30万両を新政府に上納することで呼び戻している。


酒井家は質素倹約を常とし、常の領民を考えた政治を行ったことから、非常に愛された施政者であった。酒井の子孫は現在も鶴岡市に住み、人々から殿様と呼ばれているらしい。

市内から月山を望む。城下町だったこともあって市内は整然としており、昨今整備された郊外に比べると市街は美しい。

前述した藩校では「長所を伸ばす」という教育方針が敷かれ、この地から我々も知る多くの優秀な人が生まれている。小説家の藤沢周平、映画監督の本多猪四郎、そして力士の柏戸や野球選手の田中将大も鶴岡市の出身者だ。


また、この地発祥の「日本初」は驚くほど多い。例えば、学校給食。どの子どもも安定した食生活と教育が受けられるシステムは、いかにも鶴岡らしい。驚きなのは、サーフィンやバンジージャンプも国内では鶴岡が初だという。


人は宝、という庄内の伝統は今でも受け継がれている。街を歩いていると、大人がみんなで子どもや若者の成長を見守っているのがよく分かる。おそらく若者が求める刺激は少ないだろうが、周囲の人は優しく、その人々が創る街並みはいかにも美しい。


東北地方はその厳しい風土ゆえに、土地柄に強さが特徴として出ることが多いが、この鶴岡には何とも心地のよい温かさを感じる。そのうえ美人が多い。北前船が寄港する地には美人が多いと言われるが、鶴岡も秋田に負けず色白の美人が多かったことをぜひ付け加えたい。

厳しくも美しい庄内の自然

庄内平野は日本有数の米所。この地で「つや姫」「雪若丸」「はえぬき」といったブランド米が生産されている。

美しい街並みの中を5分も走ると、風景は広大な庄内平野に変わる。庄内は日本でも有数の米所であり、「つや姫」をはじめとするブランド米の産地だ。訪れた時、ちょうど田植えを終えたばかりで、田は澄んだ水をなみなみと湛えていた。そこに空が映り、まるで天地のない幻想的な世界広がる。

羽黒山の出羽三山神社の神域。写真ではよくある杉林のような感を受けるだろうが、訪れてみると張り詰めたような空気感がある。

遠くに、美しい山容の月山、羽黒山、湯殿山の出羽三山を望む。ご存じの通り、この三山は修験道のメッカであり、古代より山岳信仰が盛んな地だ。羽黒山に入ってみると、漆黒の森の中に社が点在し、いかにも霊験あらたかな雰囲気に包まれている。山中には石段があるがそれは極めて急で、登り降りをするには強い脚腰が必要だ。天狗とも言われる山伏は、この石段を365日登り降りし、自分の中の神と向き合ったのであろう。


鶴岡は内陸部の都市というイメージがあるが、その行政区は日本海まで広がる。一山越えて海に出ると、そこは中心街の風景とはガラリと様子が変わる。火山である月山肘折の影響なのか、いかにも溶岩らしい奇岩が沿岸部のいたる所で見られる。夏の海は穏やかで、静かな水面が遙か先まで広がり、陽光を映している。

この海では「ガサエビ」、正式な名前は「クロザコエビ」が獲れる。ガサエビは福井が有名だが、庄内もその漁獲地のひとつに挙がる。かなり大きなエビで、刺身はもちろんのこと、揚げたり、グラタンなどの素材にしても美味い。以前、生で食したことがあったので、今回はフライでいただいたが、頭から尾まで食べることができ、また何とも言えぬ甘みがあって実に美味かった。旬は6月から。


今回は時期が早かったので食す機会が無かったが、だだちゃ豆も庄内の名産品だ。最近は都内のスーパーでも見かけるようになったが、いわゆる枝豆のブランド品である。いわゆる一般的な枝豆とは旨味と甘みが違っており、一度食べ始めたら手が止まらなくなる美味さだ。これから暑くなると、このだだちゃ豆とビールのタッグが酒飲みには最高となる。


ちなみに、だだちゃ豆の名前については諸説あるが、「だだちゃ」とは庄内の方言で「お父さん、おやじ」という意味だという。昔、庄内藩の殿様が、だだちゃ豆のあまりの美味さに「あの“だだちゃ”が作った豆がまた食べたい」と言ったことが由来なのだという。こちらの旬は、7月下旬からとなる。

菅原道真の太宰府落ちにまつわる、優しい祭り

ここ数年はコロナ禍の影響で開催されなかったが、毎年5月25日に鶴岡天満宮の例大祭の一環として「化け物まつり」が行われる。鶴岡天満宮は中世に建立されたと言われており、古くから豊作祈願、厄除け、海難除けに御利益があることから、鶴岡だけでなく遠くから参拝する人が多かったという。


さて化け物まつり。この字面だけを見ると、魑魅魍魎が街を跋扈するような光景を思い浮かべるかもしれない。かくいう自分もそう思った。しかし、よくよく調べてみると、そのような妖怪の類いは参加しないことがわかった。

化け物に扮した親子の行列。老若男女問わず、同じ扮装で街をそぞろ歩く。

「化け物」とは、いわゆる変装のことだ。宇田天皇の近臣中の近臣であった右大臣・菅原道真が藤原時平の謀に屈し、901年に太宰府へと流されたことは歴史の授業でもお馴染みだ。都を落ちる際、道真を慕っていた多くの都の人は悲しんだが、藤原氏にはばかって公に別れを惜しむことができなかった。そこで、人々は女性の衣を身につけ、笠などで顔を隠して見送ったという言い伝えが残されている。

鶴岡天満宮で奉納される天狗の舞。その格好もまた、どこか化け物に似た感がある。近年なこうした伝統を受け継ぐ人も少なくなり、氏子が細々と後世に伝えているという。

この故事にちなんで、老若男女が派手な花模様の長襦袢に身を包み、手ぬぐいと編み笠で顔を隠すのが「化け物」というわけである。すでに中世から行われているというこの祭りがおもしろいのは、化け物が杯と徳利を持ち、無言で人々に酒を振る舞っていくという点だ。残念ながら、今年はコロナの感染を防止するために酒を振る舞うことは無かったが、このふるまい酒を毎年楽しみにしている人が多いようだ。


午前中に鶴岡天満宮で祈祷が行われ、境内、御旅所などで天狗舞や獅子舞などが行われた後、午後2時からいよいよ化け物たちが街へと繰り出す。化け物に扮した人々は、3年間誰にも正体がばれなかったら御利益があると言われていることから、皆黙々と歩く。それでも、知己に「いや〜、どうも!」と話しかけられている化け物もいて、本人は不運に違いないが、なんとなく可笑しい。


化け物は本来、皆に酒を振る舞う“ホスト役”であるからなのか、イベントだった「親子化け物」以外は積極的にパレードなどには参加しない。酒の代わりにチラシを配ったり、粋な化け物は消毒用“アルコール”を見物客の手にかけたりしている。それでも、編み笠をかぶり、淡い桃色の衣装をまとった化け物たちが街中にたくさんいる光景は、たしかに奇祭と言える。

菅原道真に扮した市民が、神輿の後に続く。途中、和歌が吟じられると、いよいよ化け物まつりのスタートとなる。

近隣の東北地方で行われる「竿灯祭り」や「花笠まつり」のような、華やかさや激しさはないが、質素倹約を旨としてきた鶴岡ならではの静かなパッションがある。敬愛してきた菅原道真への想い、五穀豊穣への願い、また一年共に支え合う人へのねぎらい、そんな様々な心がこの祭りに込められている気がするのである。

鶴岡には妹島和代が設計した「荘銀タクト鶴岡」がある。城の甍を思わせるデザインは、城下町にも親和性が高い。
化け物のオーセンティックな扮装
200年を経てもなお、庄内藩の教育方針を現代に伝える藩校「致道館」跡。残るのは一部だが、敷地では現在の小学校から大学院まで匹敵する施設があったらしい。
天狗の先導で神輿が御旅所へと進む。
パレードは地元の婦人たちのよる「手踊り」が披露された。
海外から来た人も化け物に。
酒が振る舞えないため、化け物たちも少々手持ち無沙汰の様子。