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ジムニー探検隊NEXT
VOL.007
ジムニー探検隊NEXT /// VOL.7
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ジムニー探検隊NEXT -祭り、その街-
『おわら風の盆』富山県富山市

日富山市街から30分ほど走ったところに、八尾という小さな門前町がある。そこで毎年9月に行われる盆踊りは、全国でも非常に珍しい「静」に満ちたものだ。東京から約5時間、ジムニーは北に向かった。


文・写真/山崎友貴

江戸時代に生糸の町として繁栄した八尾

八尾の旧町を代表する諏訪町本通り。整備され過ぎの感があるが、江戸時代の情緒を味わうことができる。

かつて八尾町と呼ばれていたこの地域は、2005年に合併されては富山市になった。1636年に加賀藩に許可を得て町建が始まったという。聞名寺という古刹の門前町だが、町の背後には城ヶ山という小さな山があり、かつてはここに諏訪左近という武将が城を構えていた。町の下には井田川が流れ、旧町と呼ばれる地区はこの河岸段丘にある。そのため、井田川のほとりから旧町を望むと、まるで石垣の上に載っている城のように見える。

江戸時代は養蚕業が非常に栄え、富山藩唯一の生糸公益市場として、藩の財政を支えた。この養蚕業は戦前まで町の基幹産業として続き、洋装がスタンダードになるまで「蚕都」と呼ばれて栄えていた。

八尾の中心街はまだ江戸期の名残が色濃く残っており、特に諏訪町はタイムスリップした錯覚を覚える街並みだ。諏訪町本通りは昭和61年に「日本の道100選」に選ばれており、それ以降行政によって無電柱化、石張り舗装などの整備が進められた。

八尾の市街から少し外れると、北アルプスの名峰・剣山や立山を望むことができる。富山は水が豊富で、美味しい米がとれることでも知られる。

また、旧町の中を国道472号が抜けているが、いくつもの「鍵の手」があり、往時の道筋がそのまま残っている。八尾は門前町だが、富山藩は有事にここを防衛拠点とすることを考えていたのかもしれない。事実、幕末には藩は町の住人を集めて、城ヶ山で軍事調練を行っている。

そんな時代の記憶も今は遠く、旧町はイマドキのカフェやオシャレな飲食店が所々に建ち、休日ともなれば多くの観光客で賑わっている。

富山は美味しい海鮮の宝庫

白エビのかき揚げは実に美味。生食と併せて楽しみたい。

富山県には魚津や氷見など、海鮮物で有名な場所がいくつもある。もちろん、氷見うどんや富山ブラックラーメンといったグルメもあるが、やはり海鮮系のものを食べたい。

春はホタルイカ、冬は寒ブリが有名だが、季節を問わず食せるものの筆頭が「白エビ」だ。白エビは4〜6月が旬だが、冷凍技術の進歩で大抵の季節は食べることができる。

今や“幻のエビ”などと呼ばれて全国区になった白エビだが、元々は富山の漁師が味噌汁のダシに使う代物だった。小さいために剝くのが面倒で、生で食べようなんて思わなかった…というのが、地元のおばちゃんに聞いたハナシだ。

丼モノの上に載せたり、軍艦で食べたりすると甘くて旨いが、熱を加えた料理はその旨味が倍増する。特に天ぷらにして食べると、非常に美味だ。筆者も生ではなく、わざわざかき揚げを出す店を探して天ぷら蕎麦でいただいた。何度でも食べたくなる、富山の名産だ。

富山と言えば、マス寿司。メーカーによって味が違うのも、また醍醐味。

富山と言えば、やはり「マス寿司」である。1700年代初頭に、料理上手な富山藩士が藩主のために鮎で作ったのが初めとされている。その後、鮎の代わりに神通川に上るサクラマスを使うようになった。

全国区になったのは大正時代で、駅弁として売られたことから旅行客に知られるようになった。わっぱに入っているのがスタンダードだが、一人で食べられるように小さく四角切られたものもある。

マス寿司の作る店は市内だけでも30ほどあるようだが、おもしろいのはそれぞれの店で特徴があることだ。マスがあっさりとした寿司もあれば、脂がのったものもある。また、酢飯の味も意外と違うので、食べ比べるのが楽しい。

ラーメン好きにはお馴染みの富山ブラック。見た目ほど味は濃くない気がする。

最後に紹介するのは、冒頭でも書いた「富山ブラック」。最近のラーメンブームにのって作ったものだと思っていたのだが、起源は1950年代と意外と古い。富山空襲の復興事業に従事していた若者のために、塩分を濃くした真っ黒なしょう油ラーメンを作ったのがルーツだという。老舗は「大喜」という店らしい。 

見た目が真っ黒なのでさぞしょっぱいだろうと思いきや、実際に食べてみるとそうでもない。ネギが多く、麵が太いというのも富山ブラックの特徴となっている。当地では白飯のおかずでラーメンを食べるというのがオーソドックスな食べ方で、白飯は自分で持ち込むというのが普通らしい(もちろんライスを注文できる店もある)。なかなか勇気のいる行為だが、炭水化物&炭水化物が好きな方はお試しあれ。

若い男女が幽玄に舞う風除けの踊り

例年なら秋風が吹き始める9月1日、「おわら風の盆」は幕開けとなる。この祭りは3日間を通して行われるもので、江戸期元禄の頃から行われているという。成り立ちが少々おもしろく、八尾の町衆が町の開祖である米屋少兵衛家から、加賀藩下賜の町建御墨付を取り戻した祝いに、三日三晩無礼講で町を踊り歩いたことに端を発するという。

こうした昔のハナシを聞くと、さぞかし賑やかな盆踊りなんだろうと想像すると思う。かつてはそうだったのかもしれないが、大正時代に入って、風の盆に大きな変革が訪れた。大正9年に誕生した「おわら研究会」は大正浪漫の気風を受け、踊りと唄に大きな改良を加えた。研究会には高浜虚子などもいたという。

男踊りはダイナミックで勇壮な感じがする。脚を踏みならす音も、男踊りならでは。

同年、東京三越で開催された富山物産展において披露された「四季の踊り」は大変な好評を博し、これが原型となって今日の「男踊り」「女踊り」になっているのだという。つまり、祭りとしては江戸時代から継承されているものの、妖艶とも言える踊りの歴史はせいぜい100年といったところなのである。

また、踊る人々にも変遷がある。当初は女踊りは芸者衆が踊り、一般の娘は踊るものではないとされていた。人前で娘をさらすなどもってのほかというわけだ。だが、名家の医者だった川崎順二が5人の娘を率先して踊らせたことから、一般の人も参加するようになったのだという。その甲斐もあって、現在踊っているのはほとんどが地元の高校生や二十歳そこそこの若者たちだ。

若い男女は揃いの着物を身につけ、編み笠で顔を隠して、踊りながら町を練り歩く。そして、その後を「地方(じかた)」と呼ばれる唄と楽器を奏でる人々が続く。これは中高年が担っている。地方は「唄い手」「囃子」「三味線」「太鼓」「胡弓」で構成されており、その調べは何とも言えない色っぽさと淋しさに満ちている。

さて、踊りは基本3つに別れており、「豊年踊り」は伝統的な踊りで、農作業の動きを踊りで表現している。一方の、新しい「男踊り」もまた、農作業の所作を日舞風にアレンジしたものだ。「女踊り」は、ホタル獲りに興じる姿を表現しているだという。

日が暮れると、女踊りは一層妖艶に見える。若い女性が踊るからこそ、優美だとも言える。

おわら風の盆は、まだ陽が高い夕刻から始まる。2023年は特に猛暑だったが、9月に入っても北陸地方は未曾有の高温が続いていた。風の盆とは言うものの、旧町にはまったく風がなかった。湿気が町を覆う中で、11の地区で踊りが始まる。踊りは通りを踊りながら流す「町流し」と、一角で輪になって踊る「輪踊り」の2種類に分かれる。踊りは町ごとに異なり、来訪者は町の地図を片手に、タイムスケジュールに合わせて広い範囲を右往左往することになる。

それぞれ趣があるが、中でも人気があるのは通りに風情がある「諏訪町」と、階段下の広場で踊る「鏡町」だ。

やがて日が落ち、街角の火が灯ると、風の盆のシチュエーションは最高の状態に整う。薄暗い門前町を、編み笠を被った若い男女が色っぽく踊る様は艶やかで、もの悲しい。今年は人出が多い年だったので町は喧騒に包まれたが、踊る人々だけが異次元に存在するかのように、そこだけ幽玄な空間となっているのが何とも不思議であった。

おわら風の盆は公式では23時までだが、非公式には町の人だけで夜明けまで踊ることもあるようだ。旧町を中心に広い範囲が24時まで通行止めになるため、クルマで行く場合はそれも考えて行動したい。旧町は民間の駐車場も多いので、駐める場所にはそれほど困らない。パーク&ライドを上手く利用するのも手ではないだろうか。

沿道には踊りをひと目見ようと多くの観光客が訪れる。場所取りをするのも大変。深夜が穴場と言われている。