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15.02.25

【vol.33-2】日本再発見ジムニー探検隊>>東京ブリッジコレクション

よく大阪を称して「水の都」と言うが、東京の水路の多さはそれ以上だ。
それ故に橋も多く、しかもその多くが世界から注目されるほど古い。
一般的に橋の寿命は50年と言われるが、東京の橋はそれを遙かに超えているものが多い。
後半は皇居から、橋の王国・隅田川へと進んだ。

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名前ゆえに誤認されている「二重橋」

上はよく二重橋と思われる「正門石橋」。下が、その奥にある二重橋。

ニュースなどで皇居のイメージ映像として出てくるのが、皇居の橋だ。写真を見ていただきたい。大抵の映像や写真は、上の橋になっていると思う。

また歴史の教科書の中で、「終戦の詔で皇居二重橋に向かって伏せる人々」なというキャプションで出てくるのも上の橋だ。だから、日本国民の多くが「皇居二重橋」というとこの橋が頭に思い浮かぶという事態になっている。ところがだ。上の橋は二重橋ではないのである。確かに見た目は二重アーチになった石橋だが、正式名は「正門石橋」という実に凡庸な名前なのだ。

では二重橋というと、そのさらに奥に架かっている鉄橋のことを言う。前の石橋と後ろの鉄橋のふたつで二重橋…という人がいるが、これも事実誤認だ。ホンモノの二重橋の正式名は「正門鉄橋」という。二重橋は昔の名称で、それが通り名として今も使われている。

江戸時代、この橋は「下乗橋」と呼ばれ、木製橋であった。強度を出すために、橋桁の途中から柱の下にもう一枚の木の橋があって上下二重構造になっていたことから、いつしか「二重橋」と呼ばれるようになった。

二重橋は江戸城西の丸改修でできた…と言われているが、西の丸は家康が築城して以来、何度も燃えているのでそれがいつの改修・改築なのか分からない。ただ木橋の寿命を考えると、最後に西の丸が再建された1863年なのかもしれない。1888年に一度改修されているが、1964年に現在の鉄橋に架け替えられた。

通常、二重橋は厳重な警備で一般人は渡ることができないが、正月参賀や天皇誕生日などの一般参賀の時はこの橋を渡ることができる。ただ、やんごとなき人々もいつもは二重橋は通ることがなく、通常は乾門から出入りする。だが、天皇陛下も2度だけ二重橋を渡るという。それは即位と崩御の時。それくらい、この橋は日本にとって特別のものなのだ。

ゴジラも壊した! 日本技術結晶の可動橋

隅田川の象徴となっている勝鬨橋。かつては中央が跳ね上がり、大型の船が通った。

隅田川を遡上して東京に迫るゴジラ、慌てて橋桁を跳ね上げる職員…。ファーストゴジラでは、そんなシーンが映画の中に出てくるが、それが勝鬨橋だ。勝鬨橋は1940年に完成した、日本に現存する希少な可動橋のひとつだ。

幻に終わってしまったが、皇紀2600年を記念して晴海で行われる予定だった日本万国博覧会のアクセス路として計画された。万国博覧会の目玉となるべく、日本の技術のみで架橋するというのがトピックだったのだ。

当時の隅田川は大型船の通行も多かったため、中央部を跳ね上げにしたのである。今では考えにくいが、当時は陸上交通よりも水運が優先されていたらしい。勝鬨橋は1日5回ほど跳開され、1回上がると再び閉まるまで20分もかかっていたという。そんなに時間がかかるわけだから、戦後に自動車の交通量が増えると、必然的に跳開の回数が減少。

勝鬨橋の上には4つの小屋があり、運転室、見張り室、宿直室などになっている。

1967年に船の通航のための最後の跳開が行われ、その後は年に一度、試験で跳開が行われていた。だがそれも1970年11月29日最後に、勝鬨橋は完全な固定の橋になったのである。

橋の築地側の袂に、「かちどき橋資料館」がある。ここに行くと、勝鬨橋を開閉させていたモーターや、開閉する様子を記録した映像を観ることができる。その様子は何とものどかで美しいものだったが、やはり現代社会で20分も通行止めをくらったら、ドライバーの暴動が起きるにちがない。

2007年には国の重要文化財に指定され、昨今ではもう一度勝鬨橋を跳ね上げようという運動も起きているが、試算によると再稼動させるには10億円という予算が必要なため実現していない。

ちなみに勝鬨の名前の由来は、日露戦争・旅順陥落を記念して、民間有志がこの場所の「勝鬨の渡し」を作ったことに由来するが、橋が跳開する様は人が勝鬨をあげる姿のようで、まさにぴったりの名前だ。果たして、この橋が再び勝鬨をあげる日が楽しみだ。

隅田川を彩るカップル橋

上は上流にある清洲橋で、エレガントなデザイン。下は永代橋で、力強いアーチ橋だ。

隅田川を見てみると、都内だけで何と15もの橋が架けられている。その中で重要文化財に指定されているのは、先でご紹介した勝鬨橋とここで紹介する清洲橋、永代橋の3つだ。まずは下流にある永代橋から行ってみた。

現在の鉄橋が架けられたのは1926年のことだが、初代の永代橋ができたのは江戸時代の1698年に遡る。時の将軍、綱吉の50歳を祝って架橋されたと言われる。ちなみに同時代の赤穂浪士たちは吉良邸に討ち入り後、最初は両国橋を渡ろうとしたが橋の番人に妨げられ、やむえずこの永代橋を渡って泉岳寺に向かった。

また1807年の富岡八幡の祭礼の時には、群衆の重みに耐えられずに落橋して、1400人以上の人が亡くなったと伝えられている。その後、幕府によって橋は架け替えられたが、1897年に鉄製の永代橋が造られた。この永代橋はトラス橋で、日本初の鉄の道路橋なのだった。しかし一部に木材を使用していたために、関東大震災の時には炎上して、渡ってくる避難民に多数の焼死者を出す結果となった。

今の永代橋は1926年に架けられたが、その威容から帝都東京の門と称えられた。また径間100mを越えた初めての橋でもあった。永代橋通りにあることから、よく取材帰りに通るが、この橋のライトアップは実に美しい。夜の様子は、まさに帝都の門と呼ぶにふさわしい美しさだ。

この永代橋と同じ頃に架けられたのが、上流にある清洲橋だ。僕が学生の頃、「男女七人夏物語」という明石家さんまの大ヒットドラマがあって、さんまが演じた主人公はここ清洲橋の袂にあるマンションに住んでいたので、ことさら印象深い橋だ。

この橋は「震災復興の華」と呼ばれたが、その名にふさわしい優美な鉄の吊り橋となっている。かつてケルン市にあったヒンデンブルグ橋をお手本にしているそうだ。親柱などにエレガントな街灯が取り付けられている。素材には当時海軍が研究していた低マンガン鋼が使われている。低マンガン鋼は炭素鋼に比べると張力に優れているため、こうした吊り橋などには最適なのだろう。

昔から力強い見た目の永代橋は男性、優雅な清洲橋は女性に例えられることが多いようだが、大正から昭和初期の最も日本が優雅だった頃の雰囲気を持っているカップルというわけだ。

東京下町にあるユニークな橋

箱崎と新川を結んでいる豊海橋。近くにある永代橋との景観を考えてデザインされている。

永代橋から日本橋川のほうに少し上がった所に架かっているのが、豊海橋だ。今回探検してきた橋の中でも、特にユニークなデザインをしている。この橋も関東大震災の復興事業で造られた橋のひとつで、完成は1927年と古い。

だがそのデザインは現代的で、まるでイケアで売っている家具のようだ。このハシゴ形の橋はフィーレンディール橋というタイプで、日本では数えるほどしかない珍しいものだ。

豊海橋も江戸時代から木製橋が架けられており、永代橋を渡った赤穂四十七士は豊海橋も渡ったという。1903年に鉄橋に架け替えられたが、この橋もまた震災で落橋して、現在のものになったという経緯がある。

永代橋と並んで夜の景観が見事で、ロングバケーションとか相棒とか、ちょくちょくTVのロケ地として使われているスポットだ。

さて同じこの豊海橋の近くに、もうひとつユニークな橋がある。南高橋と言う橋で、見た目はどこにでもあるトラス橋のように思える。だが、南高橋はその背景が非常に珍しい。

東京は震災の後、大規模な区画整理を行ったのだが、橋のなかったこの地域に架橋することになった。しかし、東京中の復興に予算を使ってしまったために、新しい橋にお金が回らなかったのである。そこで、落橋してしまった両国橋の比較的無傷だった中央部分を再利用。補強と高さ変更を施して、この南高橋として架橋したわけである。

かつての両国橋の中央部分を再利用している南高橋。

かつての両国橋は三連のトラス橋だったから、このようにリサイクルができたのだろう。ちなみに南高橋は日本で6番目に古いトラス橋であり、車両通行可能な橋としては都内で最古なのだという。数年前の東日本大震災でもさほど被害がなく、二度の大きな震災をくぐり抜けたたくましい橋だ。

何度もお伝えしているが、都内にはこのように100年近く経つ橋がたくさん存在しており、現在耐震工事が急ピッチで進められている。まだいくつかご紹介できていない橋があるが、残りはギャラリーのほうに掲載するのでご覧いただきたい。

さて探検はまだまだ続く。ジムニーは日の出桟橋まで走り、ここで一時駐車。ここからは水路だ。浅草行きの水上バスに乗って、今度は水面から橋を観てみることにした。ちなみに都内では、日本橋川から橋を観る水上ツアーなども催されているので、一度参加してみるのも一興かと思う。橋を下から見ると、またその美しい構造が見られて、なかなか萌えだ。

改めて橋にスポットを当てて都内を探検してみると、僕らの生活がいかに橋に支えられているかが分かる。同時に、東京という町がたくさんの水がある美しい町で、このように町作りをした徳川家康の政治手腕の高さに驚きを隠しきれないのである。皆さんも、今度橋を渡る時に、その橋のバックボーンがどんなものなのか、少し調べていただきたい。きっと愛着が湧いて、とても愛おしく思えるのではないだろうか。

<文/写真:山崎友貴>

東京ブリッジ探検ギャラリー

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