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14.11.25

【vol.30-1】日本再発見ジムニー探検隊>>何だか和むお稲荷さんの町[笠間]

「笠間に名城がある」と聞いて、ぶらっと今年の春に行ってみた。
茨城県のほぼ中心にある小さな城下町で何があるわけでもないが、
なんだか人を癒やしてくれる不思議な力を持った心地の良い町だった。
あれから半年、前回は行けなかった場所があったので再び笠間を訪れてみた。

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鎌倉時代から続く町のシンボル

佐白山山頂にある笠間城天守跡に続く道。現在は石垣が崩れて入ることができない。

笠間市は茨城県の中部にある町だ。旧笠間市、友部町、岩間町が2006年に合併して現在の笠間市になった。市役所は友部にあるが、市の中心と言えばやはり笠間の町だ。笠間は日本三大稲荷のひとつである笠間稲荷神社の門前町として、また笠間城の城下町として発展してきた。ちなみに子母沢寛の「座頭市」では、市は笠間出身という設定になっている。

常磐道、北関東自動車道を使えば、都心から1時間ほどでアクセスすることができる。かつてジム探でご紹介した石岡市とは隣同士だが、石岡が商人の町であることに対して、笠間はそれとは違う雰囲気が流れている。

町のシンボルである笠間稲荷神社、そしてもうひとつのシンボルである笠間城。まずは城に行ってみよう。笠間稲荷神社の門前町を抜けて、町を見下ろすようにある佐白山へと登る。この道はいまは寂れてしまっているが、かつては茨城の道百選に選ばれた観光道路だったようだ。

城のすぐ下までクルマで行けて、行き止まりには十分な台数が駐められる駐車場も完備している。

笠間城は、1219年に笠間時朝が築城した。それから400年間、笠間氏が代々守り通してきたが、18代綱家の時に後北条氏についたために小田原征伐の時に滅亡。その後、豊臣家臣の蒲生郷成が入場して戦国期の特徴を持った城に改築。明治維新まで、ほぼその形を踏襲している。

関ヶ原の後は松平氏が入り、以後、7大名が代わる代わる城を支配した。維新時には8代続いた牧野氏が笠間藩主であった。支配家の中には、忠臣蔵で有名な浅野家もあり、大石家や堀部家などもこの地にいたことがあるようだ。浅野家は笠間の後、赤穂へと移った。

笠間城は佐白山の地形を実に上手に活かしており、そこに何層もの曲輪、空堀、堅堀を造っている。その遺構の多くは現在も残っており、ダイナミックな城趾に魅了される城郭ファンは少なくない。

城趾には至る所に石垣や石段が往時のまま残る。

笠間城は、自然の地形を削ったり、平地に土塁を造ったりする関東に多い城郭とは異なり、石垣を多用している。城趾にはそうした石垣や石段、土塁が現在も多く残っており、そこがただの山ではないことを示している。

実は笠間城趾は心霊スポットとしても有名だが、城を訪れる妖しい空気感はまるでない。駐車場からいくつかの石段を登ると、本丸跡の広場に出る。ここで笠間藩の主な政務が行われたわけだ。本丸は八幡台櫓などが建てられていた土塁に囲まれており、北側の山道を歩いていくと、天守曲輪へと続く石段にぶつかる。ここは震災の影響か痛みがひどく、現在は立ち入り禁止となっていた。

この急な石段を登ると、そこには2層の天守櫓が建っていたらしいが、現在はもちろんない。ちなみに八幡台櫓は天守とほぼ同じ構造といわれており、八幡台櫓は市内の真浄寺に移築されて、現在の当時の姿を見ることができる。

ちなみに多くの山城でありがちな話だが、こんな山の上にある城のため、藩主の居館は山麓にあったようだ。

残念ながら笠間城は日本の城百選には選ばれていない。保存状態などが良くないということがあるんだろうが、現在の姿だけでも十分に城郭ファンとしては楽しむことができるはずだ。

日本を代表するお稲荷様

笠間稲荷神社の前にあるメインストリート。昔から道幅は変わっていないようで、かつてのの賑わいぶりが窺い知れる。

笠間のもうひとつのシンボルが笠間稲荷神社だ。笠間稲荷神社は社伝によると651年と言われる、非常に古い神社だ。日本三大稲荷のひとつと言われており(地域によって定義が異なる)、現在も毎年350万人の参拝客が訪れている。

江戸時代には歴代藩主の崇敬が篤く、特に牧野家が藩主になってから勢いを強めた。日本橋浜町にも笠間稲荷神社があるが、これは牧野家の江戸屋敷が彼の地にあったため、笠間稲荷神社から分祀したためである。

元々は農業の神様であったが、近世になってくると殖産興業の神様として信仰を受けた。

行く前のイメージとしては、霊験あらたかな古社を想像していたのだが、実際に行ってみると何だかピカピカな神社で少々がっかりする。脇には結婚式な神事を行う立派な会館もあり、僕の勝手な三大稲荷のイメージを見事に崩してくれた。

そんな僕の期待とはまったく関係なく、実はここの本殿は1860年に建てられたもので、重要文化財となっている。拝殿の外からしか参拝していないから分からないのだが、本殿はかなりいい雰囲気の建築だったようだ。

笠間稲荷神社の社殿。

その他にも、東門や瑞鳳閣など歴史的価値のある建物が境内にあり、同じく境内にある笠間神社美術館には多くの収蔵物が展示されるなど、なかなか見所のある神社だ。

もちろん、こうしたものに興味のない向きでも、仲見世や門前町巡りで楽しむことができる。まあ、笠間稲荷神社だけの特筆すべき何かがあるわけではないのだが、土産物屋や飲食店が建ち並ぶ街並みをブラブラとしていると、思いの外時間が過ぎていく。

門前町であることと、そば粉の名産地である大子町が比較的近いことから、やたら蕎麦屋が多い。せっかくなので、河野隊長への土産話に蕎麦でもたぐったのだが、「まあ美味しいね」というレベルだった。それよりも名物フードがあるので、それについてはこの後の項でご紹介したい。

稲荷神社門前町の名物フード

上「つたや」のそばいなり(2個370円)。「崩れる」という理由で切ってもらえなかったので、残念ながら中をお見せすることができないが、中はフツーに蕎麦である。下)いなり工房ISAGOの招福稲荷。たこ、エビ、ほたてのそれぞれがが入って3個380円。

お稲荷さんと言えば、お使いのキツネ。キツネと言えば油揚げ。油揚げと言えば、稲荷寿司である。稲荷寿司は豊川稲荷の門前町が発祥と言われてるが、ここ笠間でも稲荷神社があることから積極的に地元で稲荷寿司をアピールしている。

まあ私事で恐縮だが、僕は稲荷寿司があまり好きではない。なぜなら甘い食べ物はご飯にならないと思っているから。でも、笠間がご当地グルメで稲荷寿司を売り出している以上、探検隊としては食べないわけにはいかない。

ちなみに笠間の稲荷寿司は「変わり種稲荷寿司」と言って、中に蕎麦、クルミ、舞茸などを入れるのが特徴となっている。市内には12軒の稲荷寿司を出す店があって、それらは「いな吉会」というグループを作って笠間の稲荷寿司を広めているらしい。毎月17日が稲荷寿司の日と同会は定めており、この日は様々なサービスが受けられるんだとか。

12軒すべて行ったら、間違いなく「コン」と泣き出しそうなので、今回はその内の2軒に行ってみることにした。最初は笠間稲荷神社のすぐ近くにある蕎麦屋「つたや」のそばいなり。甘く煮付けた油揚げの中に、自然薯でつないだ蕎麦が入っているものだ。要は蕎麦寿司ということだろうと思って食べたら、意外と油揚げと蕎麦との相性がいい。ただ、相変わらず甘くて、僕はたくさん食べられる気がしない。

2軒目は「いなり工房ISAGO」の招福稲荷。この稲荷寿司はたこやエビ、ホタテといった豪華な具材が入っているのが人気。これなら僕もがっつりいけそうだ。実際食べてみると、酢飯が甘くなくて、具材との相性も抜群。油揚げの甘さをドライな酢飯が消してくれるので、辛党の方にもおすすめできる。

まあ、稲荷寿司というのは本来はハレの食べ物なのだが、現代では微妙に地味な存在になってしまった。でも、せっかく笠間の皆さんが頑張っているわけだから、訪れた際にはぜひご賞味あれ。

悲劇の歴史を今に伝える建築

筑波海軍記念館の内部。上)ソロモン諸島で見つかった零戦二十一型の機体が展示されている。下)「永遠の0」のロケ地となった一室。セットがそのまま残されている。

今回の冒頭トップの写真を見て、「なんだ、この汚い建物は?」と思った方も多いと思う。これが今回の探検のハイライトのひとつ、筑波海軍記念館だ。

昭和9年、この地に霞浦海軍航空隊友部分遣隊が誕生する。いわゆるパイロットを養成する施設で、93式中間練習機、通称「赤トンボ」によって若者たちが飛行技術を習得するために作られた。昭和11年からは予科練卒業生の訓練も開始。そして昭和13年に筑波海軍航空隊が発足している。

昭和19年以降は、帝都の防空を担う部隊として編成された。だが大東亜戦争末期には特攻部隊が設置され、多くのパイロットがここで基礎訓練を受けた後、九州の鹿屋基地などから沖縄へと出撃して行ったのである。

記念館の建物は昭和9年に完成した司令本部庁舎で、戦後は友部基地の敷地の一部と共に、県立友部病院の管理棟として使われていた。だが平成23年に県立こころの医療センターが新設されたことで、この建物は取り壊される予定だったが、映画「永遠の0」のロケ地などに使われた後、期間限定で公開されている。

内部では様々な戦争資料が公開されているが、注目は国内でも希有な零戦二十一型の機体が展示されていることだ。この機体はソロモン諸島でニュージーランド軍によって回収され、その後日本の大阪にあったものをこの記念館で公開した。ラバウル航空隊所属の機体と見られている。

友部基地の滑走路の一部は、現在、道路として転用されている。

またここから旅立ち、命を散らした若者たちのアルバムや手紙なども展示されており、これらは涙なしでは見られないものばかりだ。海外からはそうしたものを大切にする日本人の文化を「帝国主義」などと呼ぶが、こうした内容を十分に見れば、我々が決して好戦的な民族ではないことが理解できるはずだ。

友部基地は80ヘクタールと非常に広大であったようで、その主要設備は住宅街に埋没している。だが滑走路などは一部が道路として整備されており、現在も当時のままの形で残っている部分がある。また無蓋掩体壕跡や地下戦闘指揮所跡などは、ほぼそのまま残されている。

現在はのどかな地方の町という雰囲気だが、70年前はここは紛れもなく基地の町だったのである。筑波海軍航空隊の司令部庁舎が今後どういう形になっていくのか、保存なのか、それとも取り壊しなのかは分からないが、悲劇を後世の記憶に刻むというためにもできれば保存してもらいたいものだ。

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