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日本再発見ジムニー探検隊
VOL.069
時が編んだ町[鞆の浦]
時が編んだ町[鞆の浦]

以前から気になっている小さな港町があった。鞆の浦である。
映画「崖の上のポニョ」のモチーフとなった町で、かつて坂本龍馬が「いろは丸事件」で滞留した町でもある。
江戸から続く落ち着いた佇まいの町並みと、風光明媚な瀬戸内海の景観。
鞆の浦には歴史が積み重なったからこそある、様々な魅力が隠されていた。

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古来から潮待ちの港だった鞆の浦

鞆の浦の町割りはほぼ江戸時代のままで、ジムニーでもすれすれの道ばかりだ。

鞆の浦は広島県福山市にある。福山市は大きな2本の河川に挟まれた扇状地だが、西にある芦田川を渡ると、平地から熊ヶ峰という山へと地形が変わる。この山をぐるりと回り込むようにして走ると、まるで隠されているかのように鞆の浦の小さな町があるのだ。

鞆の浦の歴史は実に古く、何と飛鳥時代に編纂された万葉集には、当時は「鞆」と呼ばれた当地を歌った和歌が7首も残されているのだという。南北朝時代になるとこの辺りで何度も合戦が起きており、戦国期には要害の地形を活かした鞆城が毛利氏によって築かれた。以後、江戸時代には本格的な城が築かれ、幕末まで親藩として栄える。

小さな鞆の浦が栄えていたのには、潮待ちの場所であったというファクターもある。瀬戸内海の海運においては、17世紀中頃まで「地乗り(じのり)」という山陽沿岸を航海するのが主流であった。地乗りは潮と風の流れに乗って船を進ませるため、潮待ちのための港が多くできたのである。鞆の浦もそのひとつで、近隣には尾道や笠岡などが潮待ちの港であった。

瀬戸内海の海流は、満潮時に豊後水道や紀伊水道から流れ込む。そして瀬戸内海のほぼ中央にある鞆の浦の沖でぶつかり、ここを境に東西に分かれて流れ出していく。そのため、瀬戸内海を横断するには、潮の流れが変わるのを鞆の浦で待たなければならなかったのである。

ところが17世紀以降になると島嶼部を縫うようにして航海する「沖乗り」が主流となり、近辺の港湾拠点は尾道へと移っていった。

明治以降の近代に入ると、鉄道が主流となって航路はますます衰退。特に鞆の浦のような半島の先端にある町は開発がしづらく、時代の波に取り残されてしまったのである。だが、今となってはこの地形こそが、今の風光明媚な鞆の浦を“守った”と言ってもいいだろう。

タイムカプセルで残ったような古の陰影

鞆の浦には、かつて龍馬も見たであろう景観がいまもそのまま残っている。

福山から山をぐるりと回り、鞆の浦の町に入ると、思わず息を呑む。先ほどまで平成の世の中だったはずなのに、突如、江戸時代へとタイムスリップするからだ。鞆の浦には、ユネスコの諮問機関であるイコモスに「世界遺産級」と呼ばれる町並みがそのまま残る。そのほとんどは江戸時代からそのままである。

映画監督の宮崎駿氏はスタジオジブリの社員旅行で鞆の浦を訪れたことをきっかけに、この地にベタ惚れした。2004年にはこの地にある貸家に2ヶ月間住んで、「崖の上のポニョ」の構想を練った。2005年にも鞆の浦を訪れ、しばし滞在するほどの惚れ込みようだった。

だが、この町には多くの人を魅了する多くのものがある。ただ古い町というだけではない。穏やかな瀬戸内海、緑に輝く山、穏やかな住人たち、そして嘘のようにゆっくり流れる時間。路地を曲がる度に陰影が心を打ち、通りに出る度に光が眩しい。

町割りは江戸時代に造られたままだ。江戸中期と後期の町絵図に描かれた街路のほとんどが現代でも残っているのは、まさに奇跡だ。ほとんどの家や店がそれを現代に受け継いで、一部のみを改装して生活している。いろいろと制約もあり不自由な面もあるのだろうが、この歴史的な景観こど鞆の浦の財産だ。

この町は路地に入るのが本当に楽しい。どこを切り取っても美しい和のシーンが存在する。

1992年には「都市景観100選」、2007年には「美しい日本の歴史的風土100選」に選ばれた。だが、そんな鞆の浦にいまひとつの騒動が起きている。

江戸時代ほぼそのままという町割りゆえに、自動車生活が当たり前の現代向けに鞆の浦はできていない。町の中を通る県道47号線はバスが通行するというのに、ジムニー同士がすれ違うのもようやくのような道幅だ。福山方面と隣の能登原地区を往き来するのには、この狭い鞆の浦の中心部を通過するしかない。通勤時間帯には慢性的な渋滞が発生し、大型車両は鞆の浦を迂回するルートを通るしかないというのである。

そこで持ち上がったのが、広島県と福山市による鞆の浦の港の沖合にバイパスとなる橋を造る計画だ。これができればスムーズに通行できるようになるのだが、反面、美しい鞆の浦の景観が台無しになってしまうというわけだ。しかも架橋には埋め立てを要するため、漁場などの破壊も気になるところである。

数年前からこの計画の賛否で町は真っ二つに分かれているが、推進派の政治家が福山市長に当選したことで、つい最近、工事が始まったという話を地元で聞いた。他の土地の人間があまり無責任なことも言えないが、歴史的景観が優先なのか、町民の生活が先なのか。100年先を見据えれば、橋の建設が正解かどうかは分からない。

だが、ここまで奇跡のように残った日本全国を見ても貴重な町なのだから、日本人の財産として大切にしてもらいたいと思うのである。

朝鮮通信使を感動させた瀬戸内の眺望

対潮楼からの眺望。まるで襖や屏風に描いた絵のように完成された景観だ。

しばらくジムニーを降りて、町をそぞろ歩きしてみる。鞆の浦の向かいにある仙酔島に向かう渡し船乗り場から、北側の高台にひときわ目立つ古刹がある。福禅寺である。この寺は平安時代の750年ごろ、口から何か出てしまっている彫像でお馴染みの「空也」が創建されたと伝えられている。

現在の本堂と、ご紹介する「対潮楼」は1690年、元禄期に建てられたものだ。対潮楼とは福禅寺の客殿で、江戸全期にわたって朝鮮通信使の迎賓館として使用された。

朝鮮通信使とは李氏朝鮮から幕府に遣わされる外交使節のことで、おそらく鞆の浦で潮待ちのため滞在したのであろう。ここでは朝鮮通信使一行と日本の書家、漢学者との交流があったという。

本堂右手から客殿に入ることが出来る。下足すると拝観料を支払う場所があり、そのすぐ先には屏風絵のような素晴らしい景色が広がっていた。残念ながら天候は曇りだったが、コントラストが低いことでかえって、海に浮かぶ仙酔島や弁天島が墨絵のように見える。

客殿の間の造りと窓の面積が絶妙に計算されており、客殿の緋毛氈に座る見ると、ここから見る景観がパーフェクトなアートになっている。一体、どんな人間がこの客殿を造ったのであろうか。

眺望から目を外してふと上を見上げると、「日東第一景勝」と揮毫された額がある。これは1711年にここに来た李邦彦が、“朝鮮より東で一番美しい景勝地”と賞賛したことによるものだという。僕はソウルしか行ったことがないので分からないが、いろいろな地を回ってきたかの国の人が見ても、この景色は素晴らしいということだ。

ちなみに対潮楼という名前も朝鮮通信使が付けたもので、1748年に訪れた洪啓禧が残した書によるものだという。ちなみに窓のすぐ下には県道が見えるが、お寺の人によれば昭和30年代までは海だったという。つまりこの寺は波が打ち寄せる断崖の上にあったわけである。その頃はもっと趣きのある風景だったに違いない。

鞆の浦にある2つの時代の城趾

大可島城があった場所には、圓福寺が建てられた。かつてここで南北朝武士同士の激戦があった。

福禅寺から海のほうを見ると、ちょうど同じくらいの高さの場所に「圓福寺」が見える。県道を渡り、風情のある路地を通り、路上で戯れる猫たちを見ながら、再び急坂を登っていく。

このぽっこりと盛り上がった地形は、現在こそは地続きだが、かつては大可島と呼ばれた島だった。前述した通り、鞆の浦は東西の潮流がぶつかり合う場所であり、その潮目を見ることは軍事的にも重要なことだったのである。源平以来、日本の戦にも船舶が使われたためだ。

南朝方の武将、桑原重信はここ大可島に立て籠もり、北朝方の足利氏と激戦の末に全滅した。それ以降は村上水軍が拠点を構え、戦国期には毛利家の水軍の拠点へとなった。

坂を登り切った所に、大きな伽藍の圓福寺がある。この寺は朝鮮通信使の定宿としても使われたという。毛利家は後に紹介する鞆城をさらに内陸部に造り、この大可島までを埋め立てて地続きとした。その時、この圓福寺が他から越してきたという。

鞆城趾と本丸跡から見た鞆の浦の景観。

圓福寺から再び猫たちの脇を通り抜け、急な階段を一気に下りる。海から鞆の浦の町を見ると、一等地の高台に新しい建築がひときわ目立って見える。これは鞆の浦歴史民俗資料館なのだが、この場所にかつての鞆城があった。

町の細い路地を抜け、再び急な階段を登る。途中、武家屋敷の名残のような家も残り、何となく城だったことが想像できる。資料館がある場所が本丸跡で、そこには鞆城の石垣に使われていた巨石と縦看板だけが、鞆城の名残りである。

戦国期にはここに毛利氏が城の前身となる「鞆要害」を造り、一時期は織田信長によって追放された足利義昭がここに居を構えたことがあるのだという。そのためここには足利氏ゆかりの名門武士たちが集い、鞆幕府と呼ばれていた。

安土桃山時代になると豊臣家臣の福島正則がこの地に入り、本格的に築城を開始した。いまでは想像もつかないが、なんとここに三層三階建ての天守閣があったらしい。だが、あまりに巨大な城だったため徳川家康から謀反の嫌疑がかけられ、結局は廃城になってしまった。その後は幕府によって三ノ丸後に鞆奉行所が置かれた。

江戸中期までは城の元の建物も残っていたようだが、その後火事で焼失。そのまま明治を迎えた。現在の鞆城の名残と言えば、何層かになった郭造りの地形で、現在は公園や墓地、住宅などになっている。もし天守閣が残っていたとしたら、瀬戸内海と融合した美しい城だったであろう。

鞆の浦名物の謎の酒「保命酒」

明治時代に創業した岡本亀太郎商店の店構え。福山城東長屋門の遺構を移築した貴重な建物だ。

城趾から下りて町中に戻って探検していると、やたらと目に入る看板がある。「保命酒」。何だか養命酒のような名前なので、もしかするとお酒じゃないかもしれないが、保命酒を造っている蔵元が鞆の浦には4軒もあった。この狭いエリアにである。よほどスペシャルな酒に違いない、ということでそのうちの1軒に入ってみることにした。

岡本亀太郎商店。1855年に創業した老舗の酒蔵である。立派な店構えだが、中には現代的なお姉さんが接客をしている。「お試しになりますか?」僕は運転が必要なので、河野隊長に試してもらうことにした。一口飲んで、「不思議な味ですが、まあ美味いですよ」と微妙なインプレ。

そもそも保命酒って何だということで、ちょっと調べてみた。保命酒は大阪の漢方医の子息だった中村吉兵衛が考案した薬用酒だ。13種類(当初は16種類だと思われていた)の生薬を溶かして造られている。中村吉兵衛が鞆の浦で造られた日本酒に薬味を入れてみたものらしいが、1659年に鞆の浦で本格的な製造が開始された。

その後、保命酒は福山藩に庇護され、備後の名産となっていった。ここ鞆の浦は、潮待ちで武士や商人、旅の町人など様々な階級の人が滞留したが、その人々に好評を博したようだ。

岡本亀太郎商店のお姉さんの笑顔にやられて、隊長と僕は思わずお土産を購入。

後にお土産に買った保命酒を呑んでみたところ、薬の匂いがする梅酒みたいな感じだった。甘いものが貴重だった昔は、さぞ美味い美味いと言って呑んだことであろう。

ちなみにこれを呑むと、疲労、冷え性、頻尿、尿減、手足のしびれ、かすみ目などが改善されるそうである。個人的にはロックかソーダ割りが美味いと思うのだが、香りが独特なのでダメな人はダメかもしれない。

さて話は戻るが、オリジナルレシピを持っていた中村家だが、明治になると専売が禁じられ、他の酒蔵にもレシピが教えられた。岡本亀太郎商店をはじめとする町内の4つの酒蔵は、この時に保命酒を作り始めたわけである。肝心の中村家は事業の失敗で破産し、本家は消滅してしまったという。

保命酒はペリー提督一行に振る舞われたり、パリの国際博覧会(明治)に出品されたりと、国際的にも評価を受けていたらしい。一時期は海外にも輸出されていたというから驚きだ。たしかにシェリー的な味もするが。鞆の浦を訪れた時は、一度お試しあれ。

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