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日本再発見ジムニー探検隊
VOL.049
国を開けなさ〜いツアー[横須賀]
国を開けなさ〜いツアー[横須賀]

横須賀は言わずと知れた海軍の街である。
アメリカ文化が溢れ、独特の雰囲気が漂っているが
横須賀、そしてその隣の浦賀・久里浜は日本近代化の地であった。
今回は、現代から開国の時代までタイムトリップしたい。

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日本近代化のすべてがここから始まった

日米の軍艦が間近で観られるヴェルニー公園。艦コレの影響もあってか、平日でもマニアがいた。

中心部に軍事施設があり、その周りを囲むようにして街が広がっている横須賀。道には米軍関係だと思われる人々が多く歩き、アメリカの香りがする店が多く散見される。横浜からさほど離れていないのに、その雰囲気はまるで異なる。だからこそ、東京方面から横須賀に来ると、どこか遠くに来たような気分になってしまう。

昔から不思議だったのだが、なぜ横須賀は軍港として栄えたのだろうか。その答えは、江戸末期まで遡ることになる。埋蔵金伝説でお馴染みの幕臣・小栗上野介は、勝海舟と対立しながらも、日本に海軍力が必要だということに関しては一致していた。頭の古い重臣たちは海軍立国としての日本を想像することができず、長州問題などの内政にばかり目を向けていた。

小栗上野介は造船所を設立するために策を講じて、まず横須賀製鉄所を建設し、それを拡張して横須賀造船所とする予定だった。小栗はフランス政府の援助を得て、彼の地よりもを招聘。フランス外交官のレオン・ロッシュが適所を模索したところ、横須賀がいいだろうということになった。そして技術者レオンス・ヴェルニーの指導のもと、横須賀製鉄所建設を開始した。

そもそも横須賀は浦賀水道をほぼ通らずに外洋に出られるという立地であり、周辺は港を造りやすい地形に恵まれていた。造船した艦船をすぐに航海に出せるし、修復が必要な船はすぐにドックに入れられるというわけである。残念ながら、横須賀造船所が完成する前に幕府が瓦解し、小栗の夢は叶うことはなかった。

だが、この夢は明治政府へと受け継がれ、明治4年に第一号ドックが完成する。横須賀造船所はその後、横須賀鎮守府の設置とともに横須賀海軍工廠となり、昭和初期までに現在とほぼ同じ施設の規模となった。

ON THE STREET BURGERでもお馴染みのドブ板通り。かつてはアメリカ軍人相手の飲食店や特殊風俗店が建ち並んでいた。

大東亜戦争終了後はアメリカに接収され、この横須賀は米海軍第七艦隊の母港となっている。また東京が近いことから、海上自衛隊の自衛艦隊司令部、護衛艦隊司令部、そして潜水艦隊司令部といった各中枢部が設置されている。

横須賀の街に入ってくると、とにかく港に大きな軍艦がたくさんいることに驚かされる。この日の朝は、海自のなんちゃって空母「ひゅうが」が出港する場面に遭遇。ウォーターラインシリーズで育ち、雑誌「丸」が小学生時代の愛読書だった僕には、テンションがいきなりMAXになる街だ。

横須賀にはメジャーな軍艦ウォッチングスポットが3つある。一番お手頃なのが、横須賀建設の功労者であるレオンス・ヴェルニーの名前を冠したヴェルニー公園。ここではアメリカ海軍の艦船や海上自衛隊の護衛艦を目の当たりにすることができる。イージス艦や原子力潜水艦は当たり前、タイミングが良ければ空母ジョージ・ワシントンも停泊している。

また安針台公園やJR横須賀駅の上にある高台も、港内を一望することができるスポットだ。ちなみに今年は8月2日に米軍基地と海上自衛隊基地の開放が行われる予定で、普段は間近に観られない軍艦に乗るチャンスもある。

世界からリスペクトされる「三笠」

三笠公園に設置されている記念艦・三笠。隊長を見てもらえば、その大きさが分かるはず。

日本人なら、日露戦争・日本海海戦でバルチック艦隊を打ち破った歴史を一度は学ぶ。その時、日本の連合艦隊旗艦だったのが戦艦「三笠」である。三笠は日清戦争後、ロシアに対抗すべく打ち立てられた「六六艦隊計画」において計画・建造された艦船である。

建造はイギリスの重工業メーカーのヴィッカースが担当し、明治33年に進水した。日本海海戦が明治38年であるから、進水式からわずか5年で大きな戦闘に参加したことになる。

三笠は排水量15140t、全長132m、全幅23m、15000HPのエンジンで最大18ノットで進んだ。その外観を見ればわかるが、当時の戦艦はまだ帆船の名残が多い。大きな2本のマストもさることながら、船首には衝角が付いている。衝角とは、船首を敵艦に体当たりさせて行動不能、もしくは撃沈させる「角」だ。1905年以前に竣工した日本の軍艦には、これが見られた。

また艦長室が艦尾にあったり、スタンウォーク(散歩用の歩道)があるのも、船が風の力で進んでいた頃の名残と言われる。もちろん三笠は内燃機関で動いているから、これらは様式にすぎない。

三笠の中は博物館となっている。兵器などはレプリカだが、往年様子を知ることができる。

三笠は軍艦色のイメージが一般的だが、イギリスから日本に回航される際には、白と紺と赤、金というまるで客船のような色だった。現在の三笠の館内にはこの時の模型があるが、この色で見ると、一層三笠の優雅なスタイルが分かる。

連合艦隊旗艦として東郷平八郎を乗せて活躍した三笠だが、ワシントン軍縮条約において廃艦が決定する。当初は解体される予定だったが保存運動がおこり、現役に復帰できない状態で保存するという条件付きで特例が認められた。

現在の三笠は港に停泊しているように見えるが、実は喫水線から下は埋められて固定されている。ちょうど模型の「ウォーターラインシリーズ」と同じである。艦首は皇居に向けられ、主な兵装はすべて取り払われレプリカとなっている。

大正14年に記念艦としての第二の役割をスタートさせた三笠だったが、敗戦後は悲惨だった。ソ連からの解体要望こそアメリカ軍に阻止されたものの、戦後の物資の不足から甲板上の構造物は取り払われ、代わりに米軍用の水族館やダンスホールが置かれた。

だがそれを目の当たりにしたチェスター・ニミッツ米海軍元帥は、自らが東郷平八郎を敬愛していたことから、保存活動を先導。廃艦が決まっていた、同じイギリス製のチリ軍艦の部品や、レプリカによって現在の姿へと修復されたのである。ちなみに、現在は防衛省管轄の国有財産となっており、艦内では海自出身のボランティアによって説明を受けることができる。

隊長も僕も何度も三笠を訪れているが、やはり日本の歴史の中で最も輝いた艦船を観るのは楽しい。絵画でも有名な東郷平八郎が指揮を執った艦橋上に上がることもでき、いい歳をした大人二人で「皇国の荒廃この一戦にあり」ゴッコで盛り上がった。

軍艦は戦争の道具だという見方もあるが、一時代を築いた堂々たる軍艦をぜひ一度は見ておきたいものだ。

横須賀にあったあの有名志士の妻の墓

信楽寺墓地の一角にあるお龍の墓。立派な案内板が建てられている。

坂本龍子、いやお龍と言ったほうがわかりやすいだろうか。かの坂本龍馬の妻だった女性である。お龍は1841年に京都の漢方医・楢崎将作の長女として生まれた。楢崎家は元長州藩士だったが、曾祖父が主君の怒りを買って浪人の身となる。だが、父の代になると中川宮の侍医を勤める家柄となっていた。

だが父が安政の大獄で捕らえられ、その二年後に病死すると、家は困窮。お龍は七条新地の旅館に働きに出て、ちょうどこの頃坂本龍馬と出会ったと言われている。ほどなくして、龍馬とお龍は内祝言をあげる。留守がちだった龍馬は懇意にしていた伏見寺田屋にお龍を預けるが、そこで捕吏に囲まれた龍馬を裸で助けるというエピソードがおこるわけである。

さて、坂本龍馬が近江屋で見廻り組に暗殺されるわけだが、そこからのお龍の人生は必ずしも幸せなものではなかったようだ。元来の気の強い性格ゆえに長崎時代には海援隊隊士からも疎まれていたようで、京都で営まれた龍馬の葬儀には、正妻であるにも関わらず呼ばれることがなかった。

お龍と言われている女性の写真。井桜直美氏所蔵。新選組局長・近藤勇も想いを寄せていたとされる。

夫の死後は、海援隊隊士の三吉慎蔵がしばらく面倒をみたが、その後土佐の坂本家に送り届けられる。だが家事が苦手などのお嬢様気質ため婚家と折り合いが悪く、追い出されるようにして坂本家を後にした。その後、妹の夫である元海援隊隊士・菅野覚三郎の実家や寺田お登勢などを頼って流浪の人生を送った。

その後、京都、東京、横浜と移り住んで、明治7年に大道商人の西村松兵衛と結婚。名前を西村ツルと改めた。この時代のことは、三谷幸喜原作の「龍馬の妻とその夫と愛人」に描かれている。もちろん脚色されてはいるが、当時のお龍の様子を概ね知ることができる作品だ。

晩年のお龍はアルコール依存症状態だったらしく、よく酔っては「自分は坂本龍馬の妻だ」と絡んだという。その後、妹と内縁になった夫にも逃げられ、他人の世話で細々と生きていたが、明治39年に亡くなった。

京急大津駅からジムニーでようやく通れるような細い道を進んでいくと、信楽寺という立派な寺がある。その墓地の一角にお龍は眠っていた。墓はお龍の死後8年経ってから建てられたもので、墓碑銘には「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」(ママ)となっている。後年になって龍馬の墓がある京都霊山護国神社にも分骨された。

坂本龍馬と言えば、勝海舟と共に日本海軍創設に尽力した人物で、海援隊はその先駆けとも言われている。その龍馬の妻が、流れ流れて横須賀が終焉の地となったのは、運命のようなものを感じてならない。日露戦争開戦前には昭憲皇太后の夢枕に坂本龍馬が立ったとも言われるが、横須賀、三笠、坂本龍馬、そしてお龍という何とも不思議なつながりである。

モダンデザインが心地いい海辺の美術館

豊かな自然の中に建つ横須賀美術館。館内には柔らかな陽が入り、非常に気持ちのいい空間が多い。

国道16号を南下して馬堀海岸の辺りまで走ると、風景はいきなり美しい海岸線へと変わる。途中、走水という漁村を通るが、ここには走水神社がある。ここは日本武尊が東征の際に村人に冠を与えたのだが、その冠を石棺に入れて土中に埋めたのが始まりと言われる。

横須賀は古東海道のルート上にあり、ここから船で上総へと渡った。日本武尊の東征ルートには様々な説があるが、妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)が荒れ狂う海を鎮めるために入水したという伝説がこの地に残ることから、やはりここから千葉県側に渡ったと考えるのが自然なのだろう。

さて走水のコーナーを抜けると、そこはまるで南国リゾートのような景色になる。観音崎京急ホテルもある絶好のロケーションの中に、横須賀美術館がある。前は海、後ろは山と風光明媚なところで、ここにモダンなデザインの建物が建つ。建築設計は各地で集合住宅などを手がけている山本理顕。ガラスを多用した外観、逆に中は光を柔らかくコントロールしてリラックスして作品を鑑賞できるように配慮されている。

主に現代アート作品の展示が多いが、作品と同時に建物自体を楽しむように設計された美術館だ。館内には、かつての週刊新潮の表紙でお馴染みの谷内六郎のコーナーもあり、老若男女がアートに親しむことができるはず。

美術館にはミュージアムレストランがあり、天気のいい日はテラスで食事やティータイムをするのが最高だ。よく手入れされた芝生と眼前に広がる東京湾は、ちょっとしたリゾート気分を味わえる。

また美術館の裏手はハイキングコースになっており、途中に明治29年に竣工したレンガ造りの砲台跡を見ることができる。

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