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日本再発見ジムニー探検隊
VOL.045
城とカマボコと林道と。[小田原]
城とカマボコと林道と。[小田原]

かつて相州の中心地だった小田原だが、今は何となく"通過地点"な感じである。
かくいう僕も、仕事で箱根・伊豆にはよく行くが、箱根は通り過ぎてしまうことが多い。
だがこの町には何と城跡が二つもあり、多くの魅力的な文化が残っているのだ。
今回は小田原をジムニーで探検してみた。

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後北条家が造った城下町

現在の天守は昭和35年に再建されたもの。中は博物館になっている。

僕が子供の頃は、小田原もその先の熱海もメジャーな観光地だった。東海道新幹線でのぞみが走り始めた頃からだろうか。小田原や熱海は観光地として廃れ、どちらかというとストロー現象の通過点の場所となってしまった気がする。河野隊長のように「いや、神奈川県民はけっこう小田原に行きますよ」という親小田原派がいるかと思えば、別な知り合いのように「小田原は通過が多いねぇ」という県民もいるようだ。

さて小田原だが、この地は縄文時代にはネイティブ日本人と渡来人が共存共栄した珍しい場所だったらしい。中世には波多野氏の領地だったようだが、当時はあくまでも秦野市が中心地だったようだ。小田原が関東一円の中心地になったのは戦国時代。伊勢新九郎、いわゆる北条早雲がこの地に居城を造ってからである。

僕らが日本史を習った時には、北条早雲はどこの馬の骨とも分からぬ人間が立身出世した…などと、下克上の象徴と言われていた。ところが昨今の研究によれば、早雲は室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏、つまり伊勢流平氏の出自だったことが分かっている。早雲の時代は北条を名乗っておらず、伊勢盛時、もしくは伊勢宗瑞と言っていたようだ。北条を名乗ったのは息子の氏綱からだといわれている。

さて、この北条早雲が1400年代末期に小田原城にいた大森氏を討ち、城を我が物にした。知略に優れた人だったようで、戦上手というのが歴史の評価である。一度は三河方面に領地を広げようとしたが失敗し、その後矛先を関東に向けて、徐々に領地の拡大に成功した。早雲以降、北条家は氏綱、氏康、氏直、氏政と豊臣秀吉に滅ぼされるまで5代続き、神奈川、埼玉、群馬、栃木、伊豆の広い範囲を領地としていた。

ちなみにこの5代は、鎌倉時代の北条氏として区別して「後北条」とも呼ばれる。共に桓武平氏ではあるが、直接の後裔ではない。ただ同じ相模国を領地としたこともあり、伊勢氏よりも執権であった北条氏を名乗ったほうが都合が良かったという見方もあるようだ。

たまたま城の側で発掘調査中だった戦国時代の遺構。下級武士の住宅跡らしい。

さて、小田原のランドマークとなっているのが「小田原城」だ。現在ある小田原城天守閣は昭和35年に復元されたものだ。オリジナルの小田原城は明治の廃城令で解体されている。

また現在復元されている総石垣の城郭は北条氏時代のものではなく、北条滅亡後の1632年の徳川幕府によって大改修されて後のものである。北条氏時代は天守閣を持たない城だったが、小田原市街をグルリと9㎞も土塁と空堀で囲んだ城であった。平成22年から天守閣の北側で「御用米曲輪」の発掘調査が始まったが、そこからは江戸時代の遺構だけでなく北条時代の庭園なども発掘されている。現在も遺跡を観ることができるので、埋められる前にチェックしたほういい。

北条氏滅亡後は旗本の大久保氏が入封し、前述のように1632年から総石垣造りの立派な城を築いた。ここにかような立派な城を築いたのは、やはり入り鉄砲・出女を防ぐ箱根の関所がその先にあったからだと言われる。箱根は江戸の防衛線であり、小田原城は防衛の要だったわけである。

現在、天守閣の他に二ノ丸隅櫓と常磐木門が再建、銅門が復元されて、なかなかの威容を誇っている。桜の季節などは実に風情があって、とても都心から1時間ちょっと来られる町とは思えないのである。

小田原周辺はちょっとした林道エリア

白銀林道から分岐する大杉窪林道。長い間使われていないようで、廃道なみに荒れていた。

小田原市内から国道1号線を箱根湯本方面に走り、三枚橋で県道732号線に入る。この県道こそが、かつての旧東海道である。ジムニーでも狭いなぁと思う山道をクネクネと走ると、しばらくして右手に「早雲寺」がある。この寺は早雲の遺言によって、2代氏綱が建立したものだ。ここには江戸時代に狭山藩北条氏治が建てた北条5代の墓が残っている。

残念ながら本堂は改修中とのことで、まったく拝観することができなかった。とりあえず5代のお墓に手を合わせて境内を出たが、何とも食い足りない気持ち。そこで、20年くらい前に走ったことのある林道が近くにあったので、内田氏ばりに行ってみることにした。

早雲寺からさらに山を登ると、左手に白銀荘という旅館が見える。そのT字路を左折して山道をひたすら走り続けると、白銀林道の入口がある。この林道は山中で様々な林道に分岐していくが、うまく走り継ぐと根府川や石橋の海沿いに出ることができる。

そのほとんどが舗装されており、我らがジムニー乗りには物足りない部分もあるが、未舗装部分が残っていないわけではない。その貴重な1本が、大杉窪林道だ。白銀線から分岐して、最後は箱根ターンパイクにぶつかる。入口は杉林だが、奥に進むほどに道幅が狭くなって、ジャングルのような植生に変わっていく。

林業関係者もほとんど使っていないようで、道は荒れ放題。路面に嵐で折れた杉の枝が散らばっている。葉が深く堆積しているため、舗装部分でもまるでフラットダートのようになっていた。距離はそれほど長くないが、ダート部分もあってちょっと走る分には楽しめる区間だった。ただ、そのままターンパイクに出てしまうと通行料金を支払うはめになるので、林道ゲート前でUターン。

早川・石橋林道にも短いがダート区間がある。渓流沿いの気持ちのいい道だ。

白銀林道まで一度戻り、南のほうへとさらに走る。ターンパイクを越すと、十字路にぶつかる。まっすぐ行くと石橋や根府川に向かうが、今回は左手の早川・石橋林道に向かう。

ここも走り出しは舗装路だが、やはり通行がほとんどないらしく荒れ放題だ。こんなに使わない林道ならば、いっそ舗装などせずにダートのままでいいではないかと思うのは四駆乗りのエゴだろうか。

杉の枝葉が積もった道をしばらく走ると、路面はフラットダートへと変わる。右手に早川の流れる音が聞こえ、なかなか気持ちのいい道だ。天気のいい日であれば杉の木々から木洩れ日が降り注ぎ、身も心もリフレッシュされる。

しばらく調子よく走っていると、突如産業廃棄物処理場が現れて興ざめ。早川沿いに林道は続き、やがて道は石橋へと出る。ちなみに石橋は源頼朝が挙兵して敗れた場所で、古戦場跡が残っている。

僕は林道を途中で逸れて、農道へと入った。この農道をしばらく走ると、次の目的地である「石垣山城」へと着く。この辺りはいくつも林道が複雑に絡み合っているが、どこに通じているかを知っていると、海沿いの道が大渋滞している時などに抜け道として重宝する。Googleマップにも出ている道なので、一度探検してみてほしい。

太閤が造ったもうひとつの城

石垣山城の石垣は、度重なる震災にも負けずに残っている。

石垣山城、通称“一夜城”は豊臣秀吉が造らせた山城だ。小田原城から西3㎞の笠懸山の上にあるが、この城址からは市街地が一望できる、まさに立地条件最高の城だ。立地条件というのは戦略的ということではなく、心理的に…ということである。理由は後で述べよう。

一夜城という名前は、豊臣方に籠城を強いられていた北条方が、ある日笠懸山を見上げると前の晩までなかった城ができていて非常に驚いたというエピソードによるものだ。絵を描いた紙を並べて城に見せた…などという通説もあったが、実際は4万人のマンパワーを使い、約3か月をかけて城を築いた。そして完成と同時に城を隠していた樹木を一斉に伐採したために、小田原城からは一夜で敵が城を造ったように見えたらしい。いかにも秀吉らしい“奇襲攻撃”である。

当時の豊臣方の布陣を見ると、小田原城は東西南北の陸と海から完全に包囲されてしまっている。小田原城は難攻不落の城と言われ、かつて上杉謙信や武田信玄の攻撃をも退けた名城だが、さすがに目の前にもうひとつ城を造られたらゲンナリすしたのではないだろうか。

二ノ丸跡の広場。こじんまりとした城だが、急場しのぎではない造りに驚かされる。

この城は天守台、本丸、二ノ丸を持つ本格的な造りで、ただの出城のレベルではなかった。しかも秀吉がダイナミックだったのは、このような城を造ったコトだけでない。北条征伐は長期戦になったことから、大阪から淀君や千利休を呼んで優雅な生活をおくったばかりでなく、天皇の勅使までこの城に迎えているのである。

天下統一を成し遂げるための最後の障壁だった北条氏だけに、本腰を据えた戦だったことが窺い知れる。ちなみに箱根を温泉地として開発したのも秀吉で、特段大きな動きもない長期戦の中で、全国から集まった武士の無聊を慰めるために、溫泉入浴を勧めたと言われている。つまり、この小田原に一夜城が造られなければ、温泉地・箱根もなかったかもしれない。

さて小田原征伐だが、北条氏の領地にあるいくつかの城は豊臣方によって次々と落とされ、いよいよ小田原城は孤立した。援軍を断たれた北条方は、黒田勘兵衛の説得もあって降伏。城には当主の北条氏直、父親で4代当主の氏政、氏直の弟である氏照がいた。氏直は自分が切腹することで、父と弟の助命を秀吉に願い出たが聞き入られず、氏政と氏照は城外で切腹となった。その自刃場所と墓が、JR小田原駅近くに今も残っている。

当の氏直は家康の娘婿だったことから助命され、高野山に幽閉された。だが後に赦免され、秀吉より1万石を賜って大名に復活。氏直は疱瘡によって30歳の生涯を閉じるが、一族の氏盛がその跡を継ぎ、河内狭山藩の藩主となって後北条家は幕末まで続いた。

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