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日本再発見ジムニー探検隊
VOL.043
ビハインド・ザ・新宿
ビハインド・ザ・新宿

世界一の乗降客量を誇る都内最大の繁華街・新宿。
多くの大型店や飲食店が建ち並び、人々の欲望を丸呑みにしている。
多くの人々が行き交うこの町には
江戸から昭和にかけて様々な歴史が隠されていた。

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歓楽街として成長した新宿

内藤新宿を再現したジオラマ。T字路が追分で、現在の伊勢丹がある交差点。

都内はもちろんのこと、神奈川や埼玉、千葉、山梨といった首都圏と直結している交通の要所、新宿。なんと新宿駅(西武新宿駅も含む)で乗降する人の量は、1日で約364万人というギネスレコード。幼少からこの駅を利用している僕だが、いまや通る電車の種類が多すぎて、何がどこを走っているのかまったく理解できていないくらいだ。

そんな新宿が町としてできたのは、江戸初期。徳川家康の家臣だった内藤清成が、家康入府にあたって先遣隊としてこの地で警備にあたったという。その恩賞として内藤清成はこの地に領地をもらい、現在の新宿御苑あたりに屋敷を建てたのだという。清成が率いた鉄砲隊は、その後百人組(将軍の親衛隊)として大久保に移ったのが、大久保に新宿百人町という町名があるのはそのためだ。

さて、江戸時代に幕府によって各街道が整備されたのは、これまでにもお伝えしてきた。新宿も南に甲州街道、北側に青梅街道(成木街道)が通る要衝であった。甲州街道は有事の際の将軍脱出ルート、青梅街道は江戸城築城に使われた石灰を奥多摩から運んだ道である。日本橋から発して、新宿でこの2街道に分かれるが、こういう交差点を「追分」と呼ぶ。現在の新宿通りと明治通りの交差点あたりで、現在も「追分だんご」という新宿名物がその名残を残す。

当初、甲州街道は日本橋から高井戸宿まで宿場がなかった。いまではクルマで30〜40分の距離だが、当時の旅人は休む所がなくて難儀したようである。その頃、すでに新宿2丁目あたりに集落があったようだが、住民から要望によって町屋を作った。これが「内藤宿」と呼ばれ、旅人や馬の休憩所になったのである。ただし内藤宿は正規の宿場ではなく、「立場」のような位置づけだったようだ。

現在の追分の様子。右が甲州街道方面。左手はどん突きだった。

開府から約100年、世の中もいよいよ泰平となり街道の往来も激しくなったのであろう。浅草の名主連中が幕府に願い出て、5600両の上納により内藤宿により大規模な宿場を開設することなった。それ故“新たな宿”ということで「内藤新宿」と名付けられたのである。内藤新宿は四谷大木戸から追分まで続く長い宿場で、現在の新宿通りの四谷4丁目交差点から新宿3丁目交差点まで。歩くと20分はかかる。

ちなみに大木戸はその名前から木製の木戸が思い浮かぶが、実際は両側に石垣を備えた城門造りだったらしい。ここで江戸に入る旅人を厳しくチェックしたのである。現在は新宿御苑の出入り口の名前と、外苑西通りの信号名のその名前が残っている。

さてこの内藤新宿は、旅人が宿泊したり休憩する場所というよりは、歓楽街として栄えた。当時、幕府公認の遊里は江戸では吉原(現在の日本橋人形町)くらいしかなかったわけだが、当然、江戸の人口や分布を考えればそれで事足りるわけもない。日本人にとって江戸というと昔の町という感覚が強いが、すでにこの頃で世界でも有数の大都市だった。

江戸には幕府非公認の売春宿「岡場所」がいくつもあって、内藤新宿も飯盛女を抱えた怪しげな宿屋が繁盛したのである。いまや歌舞伎町は日本随一の歓楽街だが、すでに17世紀には男性の欲望を満たす町として栄えていたわけである。あまりに繁盛したために幕府ににらまれ、1718年に一度廃駅。約半世紀後に復活している。

こうした岡場所で働く飯盛女というのは、いわゆる人身売買で身売りされた女性たち。年季に明けないうちに亡くなってしまうと、投げ込み寺の惣墓(協同墓地)に投げ込まれていたらしい。封建制時代の話とはいえ、随分不憫である。新宿2丁目にある成覚寺には、飯盛女たちを埋葬した「子供合埋碑」が今も残っている。

新宿2丁目付近にあった遊里

新宿2丁目の大門通りは、女性も多く訪れる飲食店街に変貌した。

僕の親父は戦後すぐから長いこと新宿で働いていた人間で、僕が子供の頃にはよく「伊勢丹から向こうは女・子供の行く場所ではないから立ち入るな」と言っていた。伊勢丹から向こうとは、寄席の末広亭がある新宿3丁目から東のことだ。現在は洒落た飲食店が建ち並び、若い女性も多く見られる地区だが、ここは売春防止法が施行される1958年まで新吉原に次ぐ遊里があった。

明治通りから分かれて新宿御苑で突き当たる大通りがあるが、ここから西側に1本入った場所に大門通りがある。その名前からも分かるように、色街のメインはここであった。竹の家や蓬莱といった当時有名な妓楼が立ち並んでおり、ここから東に向かって新宿2丁目の仲通りまでが新宿遊郭だったようだ。

敗戦によって米軍が進駐してくると、日本の公娼制度はGHQによって廃止された。妓楼に抱えらるのは封建的でけしからんというのである。そして女性は自由に売春ができるということになったのだが、基本的には公娼制度の妓楼が名前を変えただけである。妓楼は料亭やカフェー(カフェではない)という名目の特殊飲食店免許を取り、風俗営業を続けた。

ゴールデン街には今も青線時代の名残が多く残る。

こうした店は認可を得ていることから、警察の地図に赤線で囲まれた。そこから、売春防止法が施行されるまでの公認風俗店を「赤線」と呼ぶのである。ちなみに、当然非公認の風俗店も存在しており、こうした店は「青線」と呼ばれていた。新宿2丁目にあった遊里は、一部は赤線であったが、小さな青線がその周りを囲み、公認と非公認が入り乱れた状態だったらしい。


大通りを渡ると現在の「新宿2丁目」界隈となるが、ここらはゲイタウンとして有名で、いわゆるノンケの人たちは余り立ち入らないエリアになりつつある。仲通りももはやそうした町だった名残はないが、数軒だけ当時の面影を残した建物が残っている。中でも新宿2丁目の新宿ビッグスビルの裏には、当時の赤線の建築が現存している。「新千鳥街」と呼ばれる一角がそうで、千鳥街はそもそも画材の世界堂の脇にあった。現在、宝くじ売り場がある辺りだ。だが御苑通りを造るにあたって区画整理が行われ、千鳥街の飲食店は2丁目の赤線跡地に移ってきたらしい。

青線と言えば、新宿2丁目から北西に少し行ったところにある「新宿ゴールデン街」が有名だ。ここは1950年ごろに、新宿駅前の闇市を撤去した際に代替地として与えられた場所で、いまは巨大な歌舞伎町の一部のような感じになっているが、当時は繁華街から離れた寂しい場所だったようだ。小さな店がテトリスのように立ち並び、酔って帰ると自分がどこにいるのか分からなくなるくらいである。

今でこそいかがわしい店は減ったが、当時は青線がほとんだったようだ。ゴールデン街の店に入るとわかるが、いかにもの「チョンノ間」作りで、それが逆に魅力となっている。人との近さに惹かれて来る文化人も多く、若松孝二や野坂昭如、大島渚、赤塚不二夫などここを根城に飲み歩いた人は多い。

大正・昭和時代の建築3個イチだった伊勢丹

角の部分は元々「ほてい屋」という別の百貨店だった。

伊勢丹と言えば、新宿の街の顔と言ってもいい百貨店だ。斜め向かいにあった三越を吸収し、東口をマルイ各店と二分している。伊勢丹は、初代の小菅丹治が明治19年に秋葉原駅前に開業した伊勢屋丹治呉服店が前身。この店は関東大震災で焼失してしまい、翌年再建されるが、この時に商品を陳列する百貨店形式に変えた。

大正はモボ・モガのデモクラシー時代で、古い呉服屋よりもデパート巡りが当時のモダンだった。呉服屋は昭和5年に株式会社伊勢丹となり、昭和8年に新宿へと移転。さて、ここでこの項のストーリーが生まれる。移転先にはそもそも、大正15年にできた「ほてい屋」という百貨店があった。ほてい屋は明治10年に麹町で創業した老舗で、大正14年に百貨店として新宿に進出してきたパイオニアだ。

ところがこのほてい屋、昭和4年に増築工事をするとすぐに社長が自殺し、客足が徐々に少なくなっていく。様々な工夫をして客を呼び戻そうとするが、昭和8年に通りを挟んだ向かいに「味のデパート三福(現在の京王フレンテ)」が完成し、ますます経営が悪化してしまうのである。さらにその年、お隣に伊勢丹がオープン。これが何と、ほてい屋そっくりの外観で建てられたのである。

実はこれには理由があった。そもそも伊勢丹は経営が悪化していたほてい屋を買収する予定だったようで、買収後に2つの百貨店を合体させるつもりだったのである。そして昭和10年、ついに両社は合併。これと同時に、分かれていた二つの建物が2個イチになった。現在、建物の南側壁面を見ると分かるが、縦長の看板の脇を見ると、そこだけピッチの違う窓がある。ここが旧ほてい屋と伊勢丹の繋ぎ目である。

隊長もさっそく化石を発見。アンモナイトやら植物やらが埋まっている。

伊勢丹の建築はアール・デコとゴシック様式が折衷した重厚な造りで、近くで観ると石やランプの装飾などが素晴らしい。かつては1階から2階にかけて半螺旋のゴージャスな階段があったが、度重なる改装でなくなってしまった。

さて、この話にはまだ続きがある。伊勢丹の脇、今の伊勢丹パーキングと伊勢丹会館がある場所には、当時都電の新宿車庫があった。ところが空襲で、この車庫は焼失。戦後、その跡地に建てたのが、現在銀行が入っている白い建物の部分だ。これは戦後の安普請で味も素っ気もないが、こうして現在の伊勢丹新宿店は完成ということになる。

ちなみに伊勢丹は戦後GHQに接収されていた時期があり、ここに戦略用の航空地図を作るセクションが入っていた。また資料によると、ダンスホールがデパート内に作られたという記録も残っている。

僕が子供の頃の伊勢丹は、エレベーターも網の扉で手でガラガラと開閉する、何ともお洒落な意匠だった。このエレベーターに乗って最上階に行き、お好み食堂でお子様ランチを食べるのが中産階級の子息のステイタスだった。もちろん、そんなエレベーターもお好み食堂も今はない。ただ、エレベーターホールや階段は大正・昭和時代の大理石が使われている。この大理石には海洋生物の化石がかなり埋まっており、一時期、百貨店での化石探しがマイブームになったことがある。海草やらアンモナイトやらイカやらと、探すと意外に簡単に見つかる。向かいの三越の階段にも埋まっているので、もし思い出したら時間つぶしにどうぞ。

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