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日本再発見ジムニー探検隊
VOL.041
駿州6宿漫遊ドライブ
駿州6宿漫遊ドライブ

東海道は飛鳥時代に整備された日本の大動脈。
今では新幹線や東名・名神高速にお株を奪われて影が薄いが
江戸時代には多くの人や物が都と関東を往来していた。
探検隊は、その当時の面影を求めて駿河の国へと向かった。

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駿州屈指の難所・宇津ノ谷峠

岡部宿の脇本陣をつとめていた「旅籠柏屋」。現在は資料館と休憩所になっている。

駿州、いわゆる駿河の国は現在の静岡県中部と北東部。言わずと知れた徳川家康のホームタウンで、大御所となった家康は江戸を退いて駿府(静岡市)に移り住んだ。現在の静岡県は駿州と遠州を合わせたもので、おおよそだが静岡市から西は遠州ということになる。

静岡市は冬でも比較的温暖な土地だ。南は駿河湾に面し、黒潮海流と長い日照時間に恵まれている。そのため、ミカンやイチゴの生産が盛んな土地だ。ただ富士山の火山灰ローム層のため耕作にはあまり適していない。そこで水はけが良すぎる土壌を逆手に取って、江戸期よりお茶の栽培が推奨されてきたのである。

静岡市は東京にも関西にも影響されていない文化圏ゆえに、静岡市民は日本人として平均的な嗜好を持つと言われている。そのため、食品や煙草などの商品化を行う時に、メーカーは静岡市周辺で試験販売をして市場の反応を探るというのは意外と知られたハナシだ。「ちびまる子ちゃん」も静岡市清水区(かつての清水市)の住民という設定なので、日本全国の視聴者に共感を得ている理由は平均的感性のエピソードにあるのかもしれない。

さて江戸と京都を結ぶ東海道は、当然ながら駿州をも通っている。駿州には東は沼津、西は藤枝の計12の宿場町が存在した。今回はその内の静岡市内にある6宿を探検したいと思う。我々探検隊は、新東名高速の藤枝岡部ICを目指してジムニーを走らせた。都内から約2時間。藤枝に到着すると前日の記録的な大雪の残骸もまったくなく、何となく春めいた空気の中を走る。まず目指すは岡部宿。

岡部宿は岡部市にあるが、ここから東側の宇津ノ谷峠を越えると静岡市に入るのである。宇津ノ谷峠は駿州でも最大の難所。非常に面白いのは、この峠には6つの時代のルートが今も残っていることだ。

ひとつは平安時代に整備されて室町時代まで使用された「蔦の道」。小田原征伐のために豊臣秀吉が整備した旧東海道。日本初の有料トンネルであった「明治トンネル」。大正末期に着工し、昭和5年に完成した「宇津谷隧道(大正トンネル)」。昭和に造られた国道1号線の「新宇津谷隧道」と、名前で分かる「平成宇津谷隧道」の計6本のルートが峠越えのために造られた。

これだけの道が時代によって造られたことを考えると、どの時代の人々もよほど宇津ノ谷峠をスピーディーに越えたかったようだ。とりあえず、6つのルートすべてを探検してみたが、一番驚いたのが一番古い「蔦の道」。どうせ獣道に毛が生えたような古道だろうと思っていたのだが、左の写真のように石でしっかり段などが造られており、これが平安時代の土木工事かと思うと腰を抜かす。平安人の皆さん、馬鹿にしてごめん。

秀吉と家康が整備した旧東海道はさすがベースが軍道であるから、行軍がしやすいようにフラットに造られている。現在、クルマは通行止めになっているがジムニーなら快適に走れるであろうフラットダートだった。これなら江戸時代の女性でも楽に峠越えができであろう。

一番嫌だったのが明治トンネル。造りは実にシックで美しい道なのだが、ここは地元では有名な心霊スポットらしい。隊長はかまわずスタスタと入って行ってしまったが、僕は外からの撮影に心血を注ぎたい旨を伝えて中に入らなかった。どうもこういう場所は何か写りそうだ。

大正以降の隧道はごくごく現代的で、こうした道があるおかげで物の怪や追いはぎに襲われないで済むわけである。感謝感謝。我々は旧東海道に戻ったが、道はやがて峠越えの旅人のオアシス、宇津ノ谷の集落へと入っていく。

太閤も将軍も、はたまた天皇も立ち寄った立場茶屋

豊臣秀吉が羽織を与えた茶屋「御羽織屋」。歴史上の有名人が多く訪れている。

宇津ノ谷峠を越えて丸子宿の方に下り始めた所に、宇津ノ谷集落はある。ここは宿場ではなく、いわゆる「立場(たてば)」と呼ばれた場所だ。立場は街道沿いの難所に自然とできた休憩ポイントのことで、茶屋が何軒か集まっていた。そういう場所にある茶屋は「立場茶屋」と呼ばれる。今は国道1号線バイパスからも県道からも外れ、古い町並み好きくらいが訪れる寂しい集落になってしまったが、江戸期には峠を越える人、越えた人で賑わっていたに違いない。

21世紀に入って、そのまま時代に流れの中に消え去る運命だった宇津ノ谷集落だが、平成12年に「まちづくり協議会」が発足。他の宿場町のように各家を修復して、歴史的に価値のある集落を残そうという運動が起こった。住民の努力の甲斐あって、平成17年度都市景観賞と「美しいまちなみ賞」優秀賞を受賞。宇津ノ谷は再び人々の注目を集めることとなった。このページの一番上の写真は宇津ノ谷集落の旧東海道である。

現在では茶屋を営んでいる家はほとんどない。多くの茶屋は明治に入ると廃業し、農業へと転換していった。だがそれから100年以上経った現在でも、集落の人は苗字を呼ばないで茶屋時代の屋号で呼び合うという。

御羽織屋こと石川家の看板娘、加藤ときさん。93歳だと言うが、僕より滑舌がよかった。

さて、何軒かあった茶屋の中でも特に名を馳せたのが「御羽織屋」だ。この不思議な屋号には、あるエピソードがある。御羽織屋こと石川家は当時、宇津ノ集落の村主を勤めていた。1590年、豊臣秀吉は北条討伐で小田原に向かう途中、自ら整備した北の道(旧東海道)を進軍。この時、石川家当主の忠左衞門は秀吉に三足の馬の沓(わらじ)と勝栗を捧げたという。

秀吉が「馬は四つ足なのに、なぜ三足なのか」と尋ねると、忠左衞門は「三足は殿様の道中安全のため、もう一足は戦勝祈願のため」と答え、秀吉を大層喜ばせたという。小田原の戦で勝った秀吉は帰路にもこの集落に寄り、忠左衞門に自分の着ていた羽織を与えて、苗字帯刀を許した。

このエピソードは少々分かりづらいが、「三」という数字はバランスの取れた縁起のいいものとして好まれた。「四」は現代でも死を意味するものとして嫌われている。つまり四から一を引いて三にして、縁起を担いだというところだろう。

秀吉が残した羽織は赤絹と白和紙、これに綿を入れたでかい綿入れみたいなものであった。昔はよほど娯楽がなかったのか、徳川家康から始まり、大岡越前やら徳川慶喜、はたまた明治天皇まで御羽織屋で休息して羽織りを見学したという。それらの有名人がまたまた茶碗やら記念の品を下賜したものだから、御羽織屋はお宝の山になってしまった。

現在も200円を払うと、この羽織やお宝を観ることができる。羽織は昭和になってから博物館で修復したというのだが、300年にわたって多くの大名が触ったせいでボロボロだ。とは言え、歴史上の人物である豊臣秀吉が着たものが目の前にあるのは、非常に不思議な気持ちになる。羽織のエピソードは、石川家のおばあちゃん、加藤ときさんが流ちょうに説明してくれる。最初は200円も払う価値があるのか? と思っていたが、このおばあちゃんが秀吉の羽織前で昔語りをしてくれる体験は、200円以上の価値ありだ。

遠方からのファンも多い集落の蕎麦屋

きしがみの「天せいろ(1575円)」。十割そばだが、洗練されたこしとのど越しだ。

御羽織屋を出ると、すっかり昼時。集落で何か食べるものはないかと探したのだが、炭水化物ダイエット中の隊長と僕には鬼門の食べ物ばかり。峠の茶屋が集まった集落なのだから当たり前のことで、昔の人は炭水化物をがっつりと食べてエネルギーを補給してから難所越えにあたった。

「それなら仕方がない、仕方がない」と二人は呪文のように唱えながら、一軒の蕎麦屋の暖簾をくぐった。古民家風の「十割蕎麦きしがみ」は、平成12年に開業した比較的新しい店。店内では薪ストーブが赤々と燃えて、ジャズが流れるモダンな蕎麦屋だ。窓の外には宇津ノ谷集落のパノラマが広がっている。後から聞いたところによると、店内は二条城の厨房の梁をモチーフしてデザインされているという。

僕らが訪れたのは平日の昼時で、正直なところ宇津ノ谷集落の蕎麦屋にお客など来ていないだろうとタカをくくっていた。ところが、店内は中高年の夫婦やサラリーマンなどが蕎麦をたぐっており、中々の盛況ぶりだ。駐車しているクルマは県外ナンバーもいて、知る人ぞ知る名店らしい。

僕と隊長が頼んだのは「天せいろ」。運ばれてきた盆を眺めて「取材だから仕方がない、仕方がない」と相好を崩す。1575円という価格ながら、せいろ蕎麦に海老天2本、舞茸天、ふきのとう、蕎麦団子の天ぷらが付く充実の内容。天ぷらはさくっと衣が揚がっており、実に美味い。蕎麦は十割の細打ちで、上品なのど越しの中に香りとコシが味わえる逸品だ。さすがに遠くからわざわざ訪れる人がいるだけの価値はある。

とろろ汁で有名な丸子宿

現在の丸子宿の様子(上)。丸子の紅茶は日本初の紅茶らしい(下)。

宇津ノ谷集落を下りて東に向かうと、やがて国道1号線は丸子宿へと入る。バイパスから右に外れて旧東海道を走ると丸子宿。恥ずかしながら長い間「まるこ」だと思っていたのだが、「まりこ」と発する。確かに歌川広重の浮世絵には「鞠子」と書かれている。丸子宿の始まりは1189年の鎌倉時代で、駿府に住む武士団が源頼朝から許可を得て、ここに宿場町を作った。

1601年に東海道伝馬制度が幕府によって定められると、丸子宿も急速に発展していった。だが丸子宿は東海道五十三次の中で最も小さい宿場町であり、1843年には旅籠24軒と家が211軒あったという。それでも最小なのだから、江戸期の東海道がいかに大きな街道だったのかが分かる。

現在の丸子はどこにである地方の住宅街で、昔ここが宿場町だったと言われなければ分からないだろう。そんな丸子には意外な名物がある。ひとつめは「紅茶」。インド象もいないのに、どうして丸子で紅茶なのかと思われる読者諸兄も多いと思うが、丸子は日本の紅茶の発祥地なのである。

幕臣だった多田元吉は徳川慶喜より丸子の土地を買い取り、広大な茶園を開いた。明治期の日本にとって茶葉は生糸と並ぶ主要な輸出品目であり、多田は特に海外で需要の多い紅茶に着目。明治8年から10年をかけて中国、インドのダージリン、アッサムなどを巡り、紅茶製造技術を日本に持ち帰った。そして明治14年にインド式製法で紅茶の生産をはじめ、ここ丸子から日本全国に紅茶が広まっていったという。

残念ながら戦後、国産紅茶は競争力を失い、地場消費用へと移り変わった。現在では1〜2トン程度の生産しかなく、ある意味でレアな紅茶となっている。この日も丸子紅茶というメーカーを訪れたが休業中。飲んだ人に聞いたところでは、紅茶と緑茶の間のようなテイストなんだとか。近くの道の駅でも売っているということなので、次回は是非とも入手したい。

いまも昔ながらのとろろ汁が食せる「丁字屋」。浮世絵にも登場する。

そして丸子宿一番の名物と言えば「とろろ汁」だ。歌川広重の東海道五十三次にもとろろ汁を食わせる「丁字屋」が描かれているし、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも弥次さんと北さんがととろ屋の夫婦げんかに巻き込まれてとろろまみれになるというシーンが出てくる。

丸子周辺では鎌倉時代から自然薯が採れ、食用や薬用に重宝されていた。江戸時代に入って人の往来が激しくなると、とろろ汁を振る舞う茶屋や旅籠が急増したという。前述の丁字屋は安土桃山時代に創業した老舗で、広重が旅した江戸末期においても名店だったに違いない。隊長と僕も「取材だから仕方がない、仕方がない」と呟きながら丁字屋に向かったのだが、何とここもお休み。弥次さん、北さん同様に結局はとろろ汁にはありつけなかったという顛末。ということで、東海道中膝栗毛の中の狂歌をひとつ。

「けんかする 夫婦は口をとがらして とんびとろろに すべりこそすれ」

昔は鳶の鳴き声が「とろろ〜」と聞こえたことから、とろろをとんびと呼んだ。それに掛けた狂歌。江戸はおもしろい時代だったに違いない。

<vol.2へ続く>

宇津ノ谷を抜けるために作られた「大正トンネル」。日本の土木工学の水準の高さが窺える。