藤野駅を過ぎると、いよいよ道は甲州古道へと枝分かれしていく。
中央道や国道20号線の完成で忘れ去られた幾つもの宿場町。
「失われた世界」には、日本の置いてきたものが多く残されていた。
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藤野駅を過ぎた頃から、みぞれは完全な白い結晶へと変わった。この辺りは甲州古道と国道20号、そして中央道が並行しながらも複雑に絡み合っている。地図を注視していなければ、ついつい旧街道をロストしてしまいそうだ。
旧甲州街道はこの辺では県道520号として残っている。関東にお住まいの方なら分かると思うが、通常なら中央道ですっ飛ばしてしまうような地域だ。せいぜい中央道が渋滞になって国道20号を通過するくらいのものである。何か特別な用向きでもない限りは、一般の人はこの県道を通ることはないだろう。
「より速く、より走りやすく」を目指して、道路は時代と共に変化してきた。今や国道20号さえも廃れ、通る自動車はごくわずかだ。少し前にディズニー映画で「カーズ」というのがあったが、ハイウェイの発展で忘れ去られた町に行くという内容だった。関野や鶴川といった宿場は、まさにそんなストーリーを思い起こさせるような集落だ。
旧街道沿いには、いくつかの一里塚が残っている。ぱっと見はただの土饅頭なので、多くの人は見過ごしてしまうだろう。一里塚は奥州藤原氏時代からあったと言われるが、全国に造ったのは徳川幕府だ。江戸初期に10年かけて日本中に完成させた。
一里塚には距離を教えるという目的だけでなく、旅人の休憩ポイントという役割があった。そのため、昔の塚には榎などの木が植えられ、日陰になるよう配慮されていた。これはトリビアだが、街道というと松が植えられているイメージが強いと思う。実はこれも旅人への配慮。松の皮は湯がくと食用になるため、もし食べ物がなくなって行き倒れそうになった時にそれを喰えというわけだ。お城に松が植えられているのも、お家繁栄の縁起担ぎとともに籠城時の非常食にするためだ。
中央道を走っていると決して気づかない遺物が、旧街道にたくさんある。上野原を過ぎてからは山道をクネクネと走り続け、鶴川宿を抜け中央道を何度もまたいだ所で野田尻の宿場に入った。ここはちょうど談合坂サービスエリア脇あたりにある。何度もこのサービスエリアでアメリカンドッグを食べたが、まさかちょっと外れた所にこんな空間があるなどと思いも寄らなかった。
野田尻宿は東西南北に大きく折れ曲がっており、本陣、脇本陣、旅籠が大2軒、中3軒、小4軒の小規模な宿場だったという。本陣跡がある前の道は非常に広く、おそらくここが一番当時の雰囲気を残しているのではないだろうか。
「どこに来たのかって感じですねぇ」という隊長の言葉通り、ここがとても八王子ICから高速で30分程度の土地だとは思えない。おりしも激しくなった雪のせいで、まるで会津にでも来てしまったような錯覚に陥る。すぐ近くでは、乗用車や大型車で賑わい、多くの人が訪れる談合坂サービスエリアがあるのに、ここままるで失われた世界のように人々のその存在さえも知られていない。時代の移り変わりとは言え、何とも無常な感じがしてならない。
野田尻宿を出ると、甲州古道はほぼ県道30号に沿って西に延びる。実際の甲州道中は県道30号脇の山道に入ったり県道に合流したりというルートだが、我々は県道30号を進むことにした。やがて10分もしないうちに、犬目宿に入る。この宿場はこの近辺では最も大きな宿場町で、本陣や旅籠だけでなく継立(流通)の問屋場もあったようだが、今やその当時の面影は薄い。
ちなみに犬目という地名がおもしろいので調べてみたのだが、諸説あるようだ。ひとつは、水が湧き出る裂け目の指した「井の目」から転化したという説。そしてもうひとつは十二支から来ているという説。仮に後者だとすると、確かにこの辺には犬嶋神社が多いし、隣の宿場は鳥沢宿、さらに先には猿橋宿がある。馬とか虎とかはどこに行ったんだ? というツッコミが入りそうだが、それには目をつぶっていただく。
大月には、なんと大月桃太郎伝説までもが伝承している。上野原で生まれた桃太郎が、岩殿山に棲む鬼を退治したというのである。そして鬼退治の途中、犬目で犬を、鳥沢で鳥を、猿橋で猿をお伴につけたという。岩殿山には小山田氏の居城・岩殿山城があり、小山田氏による圧政がこのような伝説を生んだのかもしれない。ちなみに猿橋辺りにはこんな歌が残っている。
「桃太郎 ここらで伴を連れにけん 犬目 鳥沢 猿橋の宿」
鳥沢宿で国道20号に戻り、いよいよ猿橋宿へとジムニーは進む。関東の人には「猿橋バス停付近で渋滞◯km…」という交通情報でお馴染みの場所だ。ここには猿橋という橋が実在し、この橋は山口の錦帯橋、徳島のかずら橋(もしくは日光の神橋)と並んで日本三奇橋のひとつに数えられる。
写真をご覧いただくと分かるが、何とも不思議な形をした橋だ。橋脚を持たない猿橋は「刎橋(はねはし)」というカテゴリー。両岸の岩盤に穴を開け、そこに刎ね木を差し込む。その刎ね木の上にさらに刎ね木を載せて、それを何度か繰り返して架橋するという方式だ。この方式の優れた所は、高い位置に架橋できて橋脚がいらないという点だ。大水が出ても橋が流されない。刎ね板にたくさんの屋根が付いているのは、雨などで刎ね木が腐食するのを防ぐの工夫だ。
猿橋の起源は伝説では7世紀。百済から渡ってきた造園技師・志羅呼(芝蓍麻呂)によって建造されたという。志羅呼は猿が互いを支え合って川を渡る様を見て、この橋の構造を思いついたというベタな伝承が残る。7世紀にあったかどうかは疑問だが、鎌倉時代には確実にあったという。
現在の猿橋は昭和59年にH鋼を使って掛け替えられたもの。見た目だけのなんちゃってだが、それでも江戸時代と同じ見た目を今に残している。ちなみに明治天皇も行幸の際にこの橋を通って行ったし、歌川広重もここを浮世絵に残している。
国道20号を進むと、やがて道は大月駅前を通る。そこから僅かな距離で、大月インターチェンジ脇にある花咲宿に着く。花咲宿にも江戸時代に建造された本陣跡が残っている。相模湖から勝沼間の甲州街道には少ないファミレスの隣なので、すぐに分かるだろう。
この本陣は花咲宿の名主であった星野家の母屋だったもので、本陣としても使われた。幕末に火災で焼けてしまったが、その後ほぼ同じ構造で再建され、今に至っている。天皇の行幸の際に御小休所になった。中には明治天皇が休んだ上段の間があり、そこにある「御小休」の看板は、行幸に随行した“幕末の三舟”のひとりである山岡鉄舟の筆によるものなんだとか。
花咲宿を出ると、初狩宿、そして白野宿へと甲州道中は進む。初狩宿は下初狩宿と中初狩宿に分かれていた。下初狩宿には、時代小説作家の山本周五郎の生家跡がある。山本周五郎は東京生まれという印象があったので、ちょっと驚きであった。
中初狩宿には首塚があるのだが、これは織田信長に処刑された岩殿山城城主の小山田信茂のもの。信茂は武田家に仕えたが、武田勝頼が織田勢に攻められて東に落ちた時にそれを受け入れず、結果勝頼は天目山で自害した。その後、信茂は信長に拝謁を願ったが、不忠者として捕らえられ甲府で処刑された。その首がここに葬られたという。
下初狩宿を出ると、わずか3㎞ほどで白野宿へと入る。大型トラックの走る国道20号とは打って変わって、車通りがほとんどない静かな界隈だ。ここも宿場だった頃の雰囲気を今も色濃く残しており、いにしえの旅に思いを馳せるにはいい場所だ。
さて、甲州道中は阿弥陀宿、黒田宿を通って、いよいよ難所の笹子峠へと入る。雪はますます強くなり辺りも薄暗くなってきたので、今回の探検は一度ここで終了とすることにした。笹子にある笹一酒造で土産の酒を買って、ジムニーは帰路に着いた。
さて笹子峠を越え、駒飼宿、鶴瀬宿を越えると、いよいよ甲府盆地へと入る。八王子宿以来、山間の道が続いてきたが、ここで旅人は一気に開けた景色を見ることになる。開放感のある光景に、さぞほっとしたに違いない。
勝沼宿から終点の下諏訪宿までは10次。古い町並みを残した宿場も多く、なかなか探検のしがいがあるルートになる。この続きは、ぜひまた機会を改めてお届けしたいと思う。
今回のような、国道から外れた場所に今も残る旧街道というのは全国に存在する。東海道や中山道も旧街道部分は多い。こういう道はカーナビを使えばすぐに見つけることができる。
旧街道沿いにある宿場町は、便利という言葉によって置き去りにされてしまった日本の地方そのものであり、そこには日本が失いつつあるものがひっそりと残っているのだ。高速道路でスピーディに移動する旅をたまにはやめて、ゆっくりと旧街道を行けば、また違った日本の一面がたくさん見えてくるはずだ。
白野宿