ジムニーでまっすぐ走ってしまえば、わずか10分で終了の旧東海道品川宿。
だがジムニー探検隊はそれでは済ませない。
品川宿周辺に散在するおもしろスポット、グルメを探して絨毯爆撃。
後編はあなたの好奇心をくすぐる超トリビアな場所を探検する。
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品川宿の予習をしていたら、あることに気がついた。それは品川宿周辺には「◯◯発祥の地」という所がやたらに多い。例えば僕が週1で欠かさず食べる「鉄火巻き」なんていうのも、ここ品川宿発祥なのである。
現在の南品川一郵便局の海側には、かつて問屋場があった。問屋場とは宿場で旅人に籠や人馬を世話した場所で、当然そこでは多くの人足連中が働き暮らしていた。人足とくれば、やはり賭博。ということで、三岳稲荷神社がある通りには「鉄火場(賭場)」が並んでいたという。
賭けに熱くなっている人間というのは今も昔も変わらぬようで、雀荘で食べるのはカップ焼きそば、トランプ狂いの伯爵が食べるのはサンドウィッチ、そして江戸っ子がサイコロ振りながら食べるのは手っ取り早い「鉄火(賭場)巻き」ということだったらしい。昔はマグロが庶民の魚で問答河岸に上がっていたこと、品川が海苔の産地だったことから、こうしたファストフードが生まれた。
その他、この品川宿周辺で発祥のモノを上げてみよう。たくあん(沢庵)漬け、饅頭、段ボール、トランジスタラジオ、ペンキ、薬品、ガラス、クリーム状洗顔料、家具調テレビ、そしてビール…。僕らの日常生活に入り込んでいるものばかりだ。たくあんと饅頭は江戸時代に考案されたものだが、後は近代になってから。というのも、この品川は京浜工業地帯の最初の場所で、もの作りが盛んだったからだ。とは言え、これだけのものが品川で生まれたのは、何かこの土地にイマジネーションを刺激する不思議な力があるのだろうか。
先ほどのお初リストを見て「ん?」と思った人はするどい。だって「日本初のビールはサッポロビールだろう?」と僕も思ったからだ。政府が札幌に開拓使麦酒醸造所を作ったのは明治9年のこと。これが現在のサッポロビールの前身なわけだが、何と明治2年の品川に日本で最初のビール工場が建てられていたのである。
当時、品川縣知事(品川縣は後に東京市に併合)だった古賀一平が、現在の大井三丁目にあった土佐藩下屋敷の跡地で「大井村ビール製造所」を立ち上げた。大井村ビール製造所は、維新による急激な社会変化と明治2年の大恐慌で窮乏した人々を救うために始めた公営事業だった。事業自体は軌道にのせることができずに、明治4年に民間に払い下げられ、その後数年で倒産に至っている。
その幻のビールが、なんと今飲めてしまうのだ。その名も「品川縣ビール」。地元の商店街を中心に研究会を立ち上げ、2006年2月に商品化にこぎつけた。当時も使ったという「エド酵母」を使用し、現代人に合ったテイストに仕上げている。
ということで一杯…といきたいところが、今日はジムニーなのでお預け。瓶ビールは1本500円なので、お土産にすることにした。ちなみに品川宿界隈の飲食店では生ビールを飲むことができるらしいので、クルマじゃない時に試していただきたい。
ビールを見たら、食欲が刺激されてどうにもならなくなってきた。せっかくなので品川宿っぽいものを食べたいということで選んだのが、立会川にある「吉田屋」。江戸っ子は腹が減ったら蕎麦を手繰るのが定番だ。
吉田屋は、蕎麦通で知らない人はもぐりというくらい有名な店。江戸時代から続き、大正時代までは鮫洲で暖簾を上げていた。昔の鮫洲は店の前に松林、遠くに房総半島を望む風光明媚な土地だったんだとか。江戸時代の常連には、徳川政権末期の幕臣で「幕末の三舟」の一人である山岡鉄舟もいたらしい。
現在の吉田屋は、立会川駅から鮫洲方面に旧東海道を少し戻ったところにある。いかにも高級な蕎麦会席の店という店構えだ。中に入る建屋の中心に錦鯉の泳ぐ池があり、さらにその奥は離れになっている。夏の昼下がりに蕎麦を食べるには、あまりに出来すぎのシチュエーションだ。
蕎麦通は何はともあれせいろを頼むものらしいが、“ビールも我慢しているのだから贅沢しちゃおうっと”と自分に言い訳しながら、リッチな天ぷらせいろを頼むことにした。待つこと10分。出てきた蕎麦はちょっと上品な十割。粋な江戸っ子は洗練された二八を好んだらしいが、香りが強いのはやはり十割だ。
多少ざらっとした舌触りだが、コシもあってのど越しもいい。つゆは藪系と違って甘めで、そのおかげでダシの香りがきちんと感じられて上品な味わい。蕎麦半分につゆを付け、音と一緒に飲み込めば蕎麦の香りとカツオだしの香りが喉で融合される。まさしく夏の贅沢。
天ぷらは小ぶりだがカラっと揚げてあり、蕎麦との対象的な食感が楽しい。せいろを空けたら、出されたそば湯でソバつゆをもう一度楽しむ。十割は好き嫌いが分かれるところだが、この蕎麦なら大抵の蕎麦好きは満足できるはず。
河岸が近かった昔の伝統から魚にも力を入れていて、刺身定食なども美味いらしい。そうなると、もう一杯やらずには済まなくなるが、とりあえずドライブの途中で蕎麦だけでも味わってみてはいかがだろうか。
腹ごしらえも済んだので、少し旧東海道を離れて周囲を探検してみたい。実は大物のスポットは、旧東海道の隣を走る国道15号沿いに多いのだ。最初に向かったのは「品川神社」。品川神社は1187年に源頼朝が安房神社からアメノヒロトメノミコトを勧進して祀ったことにはじまると伝えられている。
新橋の愛宕神社のように高台を利用して建てられているのだが、ここが面白いのは境内に富士塚があることだ。富士塚とは富士信仰のための作られた人口の山のこと。江戸時代に“冨士講”という宗教活動が流行し、関東を中心に富士塚が多く作られた。富士山に登山するのは大変なので、代わりに富士塚に登れば実際に富士山に登ったのと同じ御利益がある…ということだったらしい。
品川神社の冨士塚はそれほど大きくないのだが、神社自体が高台の立地なので塚の頂上はちょっとした山状態。品川宿が見渡せ、気分もいいし御利益もありそうだ。
さて、この品川神社の裏手には意外な有名人のお墓がある。その人とは板垣退助だ。板垣退助は元土佐藩士で、後藤象二郎などと共に土佐藩を勤王に導いた人物。明治政府では要職を歴任したが、後に自由民権運動に傾倒していった。「板垣死すとも自由は死せず」の言葉はあまりに有名だ。
もともと乾姓だった板垣退助に板垣姓を名乗るように勧めたのは岩倉具視。昭和生まれだったら知っている500円札の人だ。そのお墓は青物横丁駅近くの海晏寺にある。生まれ故郷の京都にも墓所があるが、こちらは遺髪のみが埋葬された。
その岩倉具視と犬猿の仲で、板垣退助の主君だった人物が土佐藩主・山内容堂だ。山内容堂は「幕末の四賢候」の一人と言われた人だが、実際は酒・女・詩が大好きな道楽者だったらしい。自らを「鯨海酔候」と称し、そこから土佐の銘酒・酔鯨の名が生まれている。“酔えば勤王、冷めれば佐幕”と志士たちには揶揄された日和見主義で、そのためか明治政府ではさほど重用されなかった。そんな容堂候のお墓は鮫洲駅近くの大井公園内にある。
歴史の中で絡んだ3人の人間の墓が、奇しくもこの狭いエリアにすべてあるというのは何とも運命を感じずにはいられない。品川宿近辺には神社仏閣が多いため、この他にもお墓マニアにはたまらないお墓がたくさんある。国道15号から山手通りに少し入った地域にある清光院には、徳川譜代大名奥平家の墓所がある。大名の墓所作りを現代に残す貴重な場所らしい。これが墓かっ! というすごい場所なので、機会があれば訪れるとおもしろいかもしれない。
旧東海道の立会川に戻ろう。そろそろ品川宿の探検も終わりに近い。京急立会川駅の横にある公園には、なぜか坂本龍馬の銅像がある。“なぜこんな所に?”と思うだが、実は坂本龍馬は実際にこの場所に来ていた。立会川の浜川橋のたもとには1万6000坪という広大な土佐藩下屋敷があった。黒船来襲によって幕府から砲台の建設を命じられた藩は、その下屋敷に「浜川砲台」を作った。
坂本龍馬は10代で剣術修行のため江戸・千葉道場に入門したが、この時砲台警護の藩命を受けて浜川砲台にいたことが近年の研究で分かっている。黒船は実際には浦賀までしか入って来なかったので、龍馬が見たというドラマの表現はフィクションだが、この砲台で海の向こうへ思いを馳せていたのかもしれない。
この浜川橋を渡れば、旧東海道の終わりも近い。その終点には「鈴ヶ森刑場跡」がある。鈴ヶ森刑場は日光街道の小塚原刑場、甲州街道の大和田刑場とともに江戸の三代刑場と呼ばれる。1651年に鈴ヶ森にできたのだが、当時は浪人の犯罪が多く、江戸に入ってくる浪人への警告のためにこの地に作ったと言われている。
220年間で20万人がここで磔や火あぶり、斬首になったとされ、かの有名な八百屋お七もここで処刑された。浜川橋が“なみだ橋”と言われるのは、刑場に送られる罪人とその縁故の者が橋で別れを告げたから。ちなみに小塚原刑場の近くにもなみだ橋があり、こちらは「あしたのジョー」に出てくる丹下ジムで有名になった。
最後は少々寂しいスポットで終わったが、品川宿はかなり楽しめる場所だった。今回は紹介できなかったが、気になる飲食店もかなりあるし、入ってみたい裏路地もたくさんある。平日は周辺に勤める人や住人で往来が激しいが、週末ともなると江戸時代よりも寂しくなる。そんな旧東海道を探検するのも、なかなか趣があって楽しい。
ということで、品川宿の探検はいかがだったろうか。次回は少し趣向を変えた日本再発見の探検に出るので、お楽しみに!
<文+写真:山崎友貴>
探検で困るのが、クルマから離れて徒歩になった時。クルマにはカーナビがあるが、歩きではスマホの地図が頼り。スマホのナビもなかなか使えるのだが、検索性や操作性がどうしても悪い。そこで今回目を付けたのが、ソニーnuv-u〈NV-U37〉だ。
ソニーというと、すっかりポータブルナビのメーカーになってしまったが、ポータブルナビの中でもnuv-uはなかなか性能が高い。中でもNV-U37は、車載としてだけでなく、徒歩に重点を置いた性能を持つ。ナビを徒歩モードにすれば、地下道を通るルートを引くこともできるのだ。さらに、アウトドア地図モードは国土地理院の2万5000分の1地形図を収録(もしくはダウンロード)しており、登山やトレッキングの時にものすごく便利。
VICSが付いていないので渋滞情報は加味してくれないが、測位精度も小さいのに正確で、今回のような探検でもまったく自分の位置がずれることはなかった。自転車に付けるアタッチメントもオプションであるので、徒歩がいやな人はジムニーに自転車を積んでいって、現地でnuv-uを使って探検するというのもいいかもしれない。実勢価格は2万3000円〜3万円。
吉田屋は、蕎麦通で知らない人はもぐりというくらい有名な店。江戸時代から続き、大正時代までは鮫洲で暖簾を上げていた。昔の鮫洲は店の前に松林、遠くに房総半島を望む風光明媚な土地だったんだとか。江戸時代の常連には、徳川政権末期の幕臣で「幕末の三舟」の一人である山岡鉄舟もいたらしい。