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16.02.25

【vol.41-2】日本再発見ジムニー探検隊>>天下の嶮周遊ツアー[箱根]

今回は意外と知られていない箱根を巡る探検。
ジムニーはさらに国道1号を芦ノ湖方面へと向かう。
多くの観光客で賑わう箱根界隈には
ひっそりと佇む歴史の足跡が残っていた。

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湯坂道に残る石仏群と五輪塔

元箱根に残っている磨崖仏「二十五菩薩」。鎌倉時代に造られたとされている。

国道1号はやがて湯坂道へとなり、元箱根へと向かう。パート1でご紹介した通り、この道は頼朝が箱根神社を参詣してから整備された道だ。その時代の名残が、国道1号沿いに見ることができる。

そのひとつが、元箱根磨崖仏だ。「二十五菩薩」と呼ばれる石仏群は、道のすぐ脇にある。ジムニーを駐められるスペースがあるので、そこから2分ほど歩いていこう。

トンネルをくぐると、目の前にある大きな岩にいくつもの仏が彫られていた。地蔵菩薩が24体、供養菩薩が1体、そして阿弥陀如来が1体と、実際には26の仏像が彫られている。本来、二十五菩薩とは阿弥陀如来の来迎に付きそう菩薩が25人いるということで、地蔵菩薩はそれに入っていないんだという。きっと数が近いことから、そう呼ばれるようになったのであろう。

石仏は1293年の奉納と彫られているようだが、最初の一体が造られてから、順次彫られていったと見られている。箱根神社の参詣道になぜ仏、と思われる向きもいると思うが、この時代は神仏習合が基本的な宗教の考え方。万人の平和を願って、こうした石仏が彫られたのであろう。道に反対にも少しだが、磨崖仏があった。

曾我兄弟と虎御前の墓と言われている五輪塔。ものすごく巨大で見る者を圧倒する。

さてこの磨崖仏のすぐ近くに、曽我兄弟の墓と言われる五輪塔がある。曾我兄弟とは鎌倉時代に父親の仇討ちをした2人のことである。

事の発端は敵である工藤祐経が、所領の不満から叔父を暗殺しようとしたことに始まる。工藤祐経の一党が放った矢は叔父を逸れ、その子息に当たってしまう。それで絶命した武士というのが、曽我兄弟の父親だったのである。

先に仇討ちを仕掛けたのは、兄の曾我十郎祐成だった。ところが、さんざん付け狙ったものの工藤祐経に諭されしまい、逆に「赤木柄の短刀」を授けられてしまう。やがて弟の曽我五郎時致が元服し、兄弟揃って再び敵討ちをすることを決めるのである。

源頼朝の富士の巻狩に工藤祐経が同道することを知り、兄弟は仇討ちを決行。夜、寝所に入り込み、酔って寝ていた宿敵を討ち果たす。その際に兄は討ち死にするが、弟は捕らえられ斬首となる。その2人の墓が、写真の左側のふたつ言われ、一番右の墓は兄の妾だった虎御前の墓ということになっている。

しかし、これが実際にこの歴史上の人物のものなのかというのは分からないらしい。建立は鎌倉時代中期から後期ということ、2つ仲良く並んでいることから曾我兄弟のものということになったのかもしれない。

ちなみに曾我兄弟の仇討ちは江戸時代に歌舞伎や浄瑠璃、能などの芸能で人気の演目となった。もうひとつの仇討ちで有名な赤穂の大石内蔵助もこの曾我兄弟の墓を訪れ、墓のコケを採ってお守りにしていたという。

そういう意味でこの五輪塔は、武士の精神的な支柱でもあったのかもしれない。

関東でも有数パワースポット・箱根神社

関東総鎮守の箱根神社。三柱の神様を箱根大神として祀っている。平安時代に創建されたという由緒ある社だ。

私事のハナシで恐縮だが、川越に住む先輩が毎年、箱根神社に初詣をしている。川越にだっていい神社はたくさんあるのにと思うのだが、かなり御利益があるらしい。

前でも少し書いたが、箱根はそもそも山岳修験道が栄えた場所である。箱根の駒ヶ岳もその信仰の対象だった山で、2400年ほど前にはすでに一大霊場であったと伝えられている。

1200年前の奈良時代初期に、萬巻上人がご神託によりこの地に箱根三所権現の宮を建立し、修験道と習合したという。その後、関東総鎮守箱根権現として江戸時代まで往来する多くの人の崇敬を集め、明治の神仏分離で箱根神社と改称した。

神社は芦ノ湖沿岸の高台にあり、荘厳な感じのするご神域が広がっている。ただ行ってみると、平日ということもあって中国人や韓国人の観光客ばかり。周囲からの雑音をだけを聞いていると、ここが香港の関帝廟じゃないかと錯覚する。外国人が神社建築に興味を持つのは分かる気がするが、二礼二拍手一礼で参拝している様子は、ちょっと不思議な感じがする。

ちなみにここの御祭神の一人であるニニギノミコトは、天孫降臨で日本を開拓した神様。つまり神道の祖であり、日本の祖でもある。それが理由なのか、明治天皇以来、歴代の天皇のすべてがこの箱根神社を参拝している。やはり一族の祖ということで、ここを詣でているのだろうか。それを聞くだけで、ちょっとありがたい神社な気がしてしまうのである。

独特の遺構が魅力の山中城

北条方の城の中でも、山中城はその独特な遺構「障子堀」がきれいに残っている。

箱根神社から芦ノ湖を巡るように走り、有料道路お芦ノ湖スカイラインに入る。芦ノ湖を見下ろしながら走るターンパイクで、途中の三国峠から観る富士は圧巻だ(トップの写真)。道はやがて箱根峠で国道1号と合流する。

本来だったら、ここで再び芦ノ湖のほうに戻るのだが、ちょっと寄り道をすることにした。国道1号を三島方面に少し降りると、山中宿の集落が見えてくる。ここには、今話題の城跡があるのだ。

山中城は、後北条氏が本城である小田原城を守るために1560年代に築いた支城だ。箱根にはこのような城が10あるが、中でも山中城は重要拠点とされていた。それもそのはずで、この城は東海道を取り囲むような形で造られているのだ。つまり小田原を目指して東海道を進軍してきた敵を、この山中城で討つという役割だったわけだ。

今でこそ杉の植林で見えないが、樹木がなければ国道1号線を見下ろす絶好のロケーションだ。道路脇にジムニーを駐めると、道からいきなり立派な竪堀が見える。城マニアとしてはたまらない。

鳥居をくぐって、早速本丸へと向かう。山中城は昭和48年に三島市が整備して、現在は公園を兼ねた城趾となっている。鳥居のすぐ上は本丸跡であり、そこから西へと二ノ丸、西櫓が、南に三ノ丸が広がっている。

本丸から見た二ノ丸と西櫓。今は緑化されているが、もちろん当時は土が剝き出しだったに違いない。

さて、なぜこの山中城が話題なのかというと、それはこの城の独特な構造にある。というよりは北条の城に共通した造りなのだが、ここには「障子堀」と「畝堀」という堀がきれいに残されている。この堀の構造は後に真田幸村が「真田丸」という砦に使ったことで、昨今山中城が脚光を浴びているのだ。

障子堀や畝堀は、堀の中に塀を作り、敵が攻めにくくするアイデアだ。中が枡状になっており、いくつかには水を溜めて溜め池として使ったり、田んぼのようにドロドロにして、敵が進みにくいようにしていたらしい。

小田原城にも障子堀が残っているが、ここまできれいな遺構はない。山城ということもあり、まるでマチュピチュのようだ。西櫓からは富士山とその裾野が一望できるという、絶好のロケーションにある。

山中城は豊臣秀吉の小田原征伐を前に増強されたが間に合わず、結局7万の圧倒的な兵力に攻められて、わずか半日で落城した。そんな悲劇の城ではあるが、遺構はあくまでも美しい。城好きでなくとも、一度は訪れてほしいスポットだ。

難所を行き交う人々に愛された甘酒

県道732号沿いにある甘酒茶屋。昔ながらの風情の店で、昔ながらの甘酒を出す。

ジムニーは元箱根から県道732号に入り、旧東海道を湯本方面へと走る。厳密に言えば、車道と旧東海道は同じ部分と並行している箇所がある。車道が大きく弧を描きながら山を登っていくのに大して、旧東海道は山を直登するように走っている。

湯本から箱根関所までの区間は「東坂」と呼ばれ、箱根街道の中でももっともきついルートであった。江戸時代の人は1日平均40kmも移動していたらしいが、箱根だけは32km止まりだったというから、その難所ぶりが想像できよう。

そんな難所で旅人たちのスタミナ源となったのが、甘酒や力餅、そしてとろろ蕎麦だ。箱根にはかつて「甘酒小屋」と呼ばれる茶屋が9カ所あり、行き交う人々を癒していた。

明治13年になると湯坂道に国道1号が通ったためにこのルートは寂れ、その結果現在の甘酒茶屋1軒のみが残った。現在の甘酒茶屋は畑宿の上のほうにあるのだが、茅葺きの農家風の立派な造りだ。だが当時の甘酒小屋は、その名からも分かるように簡易的な小屋であったようだ。

とてもマイルドな甘酒(400円)は、米麹の甘さだけを活かしているんだとか。

せっかくなので甘酒を頼んでみる。茶碗に入った甘酒を一口すすると、その味のまろやかさに驚かされる。砂糖を一切使っていないというが、米麹のほのかな甘さがあって実に美味い。

現代では甘酒というと冬の飲み物という感覚があるが、実は昔は夏の飲み物だったらしい。冷やしたり、熱いまま飲んだりしていたらしいが、夏バテ防止のスタミナドリンクという位置づけだった。だから「甘酒」は今でも夏の季語なんだとか。

茶屋では力餅もあり、東坂を登ってバテた旅人を元気づけていたのだろう。登山をしていてスタミナ切れなると、チョコを一口食べただけで途端に元気が出る。きっと昔の旅人も、甘酒や力餅で一気に元気になっていたのだろう。

ちなみに、この茶屋のすぐ裏に旧東海道が通っており、石畳が残っている。今は通る人も少なく苔むしているが、鞋を履いた当時の人々にとって、滑りにくい石畳はさぞ歩きやすかったことだろう。

寄木細工の集落・畑宿

畑宿の旧東海道にある一里塚。旅人が正確な移動距離が把握できるように、幕府が整備した道路インフラ。

東坂を下っていくと湯本の前に畑宿がある。途中で疲れてしまった人が宿泊したり、休んだりした宿場なのだろうか。現在では、箱根名物の寄木細工の集落として知られている。

ここで寄木細工ができたのは江戸末期のこと。意外と新しい。石川仁兵衛という人が考えたらしい。幾何学模様にパーツ化された木を組み合わせて作るもので、お土産としてはからくりの箱などがメジャーだ。箱の一部をカチャカチャと動かしてロックを解除するという箱なのだが、土産物屋では5回〜27回と動かす回数が分かれて売っていた。

最近はGoogleのパスワードもすぐ忘れてしまう僕は、おそらく5回でもやり方を忘れて、結局箱を壊さなければならないハメに陥りそうだったので、買うのをやめた。寄木細工はタンスや盆、箸などいろいろなものがあり、中には芸術の域の大作もある。細工が細かいせいか高額で、なかなか手が出せないのが何点だが。

畑宿には、旧東海道の遺構がいくつか残っている。まず国の文化財になっている石畳。そしてそのすぐ側にある、復元された2つの一里塚。一里塚は二代将軍徳川秀忠が五街道を整備した時に、旅人が正確な移動距離を把握して行き倒れにならないように作られた。大抵は2個1組なのだが、明治になるとそのほとんどが削られて消失してしまっている。

本陣跡に残された日本庭園は、かの日本領事ハリスも訪れて喜んだという名庭園だ。

畑宿の一里塚も同様で、一度は消失したものの、近年になってオリジナルの設計図を基に復元された。そもそもこんなに大きい必要はないのではないかとも思うのだが、旅人が見落とさないようになのか、それとも幕府の威光を示すためなのか。

一里塚には榎が植えられることが多く、その木陰で旅人は休んだという。榎の根によって、一里塚の崩壊も防いだようだ。

この一里塚から少し東に行くと、本陣跡がある。前にもご紹介したが、本陣とは大名や幕府の要人などが泊まる場所だ。大抵は宿場名主の本邸が当てられて、泊まる人が出た場合は明け渡すという使い方をしていた。本陣の建物は大正時代に火災でなくなってしまったが、江戸時代からあった日本庭園が今も残っている。

街道に日本庭園というのは大層珍しかったようだ。この庭園に、幕末の日本領事だったハリス・タウンゼントが訪れたという記録が残っている。ハリスは唐人お吉でお馴染みの人物だが、ハリスが下田から江戸に向かう途中でこの日本庭園を観て、大層喜んだという。また明治天皇も行幸の途中で休憩し、この庭園を眺めたようだ。

庭は小さいが山の斜面を上手く活かして造られており、そこに山からの水が流れている。誰が作庭してかは分からないが、なかなかいい庭だった。

やはり箱根だから温泉に入りたい!

底倉温泉にある「函嶺(かんれい)」。大正時代に建てられた温泉旅館だが、日帰り温泉だけの営業だ。

箱根に来たのだから、やはり温泉に浸かって帰りたい。実は宮ノ下の先にある底倉温泉で、目当ての場所があった。「函嶺」という旅館なのだが、ここの特徴は1時間、一人で風呂を貸し切りにできるということだ。

建物は大正時代に建てた和洋折衷のもので、かつては宿泊もできたらしい。ただし老朽化が進んだためか、それともオーナーが高齢なのか、現在は非帰り温泉だけ。内湯はなく、露天風呂だけらしいが、掛け流しでなかなか名湯だという。

無休ということで行ってみたのだが、なんと休み。果たして、やめてしまっていないといいのだが。

ここの近くにあった、やはり元旅館だった日帰り温泉は、2年前の大雪で壊滅的打撃を受けてやめてしまった。非常にいい風呂だったので、残念でならない。気になるのは函嶺の最近の情報が、一切ネット上にないということだ。もしかすると、やめてしまったのか…。

諦めきれず、湯本に戻って入ったのが「湯の里おかだ」という日帰り温泉施設。比較的評判が良かったので入っていたのだが、まあ泉質は普通。循環式で掛け流しの浴槽がひとつもないのがイマイチだった。

露天風呂からの景色はさほどではないが、月の綺麗な晩にちょっと寄ってきたい所だ。休憩室などの設備も充実しているので、半日ゆっくり過ごすのにはいいかもしれない。システムの都合上、ここの風呂の写真は次のギャラリーにアップしておく。

ということで、今回は箱根探検をお送りした。メジャーな場所もあったと思うが、どうも箱根をゆっくりと見て回るという経験がなかったため、僕的には新鮮な発見が多かった。箱根にはまだまだ隠れたスポットがあるので、皆さんも再発見をしてほしい。温泉だけはない魅力が、この箱根にはいっぱいだ。

<文・写真/山崎友貴>

箱根探検ギャラリー

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