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15.06.25

【vol.37-1】日本再発見ジムニー探検隊>>播州の光と影[赤穂城・姫路城]

日本全国には星の数ほど城趾があるが、
中でも文化財価値の高い城には「日本の百名城」という称号が与えられる。
中国遠征も無事終えた探検隊だったが、
帰京の途中に百名城が2つもあることに気づき、立ち寄ることにした。

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塩、そして四十七士の城下町・赤穂

赤穂の町には、まだ城下町の名残がある。この辺りにも四十七士の中下級武士の住居跡があった。

江田島の探検が思いの外順調だったので(vol36を参照)、せっかくだから帰りにどこか寄っていくことにした。地図をそれとなく見ていると、広島から帰京するには必ず兵庫県を通過しなければならない。そこで、ふと思いついた。「そう言えば、数日前から姫路城の一般公開が再開されてたな…」。

これまでの探検をご覧いただければ分かると思うが、実は僕は無類の城好き。で、新しもの好き。ここにいて、真っ白になった姫路城を見ないわけにはいかない。同時に、僕にはどうしても訪れたい町があった。それは赤穂だ。

赤穂と言えば、やはり塩と四十七士を思い起こすだろう。塩が元で起こったとも言われる「元禄赤穂事件」。“忠臣蔵”のエピソードとして、歌舞伎、映画、ドラマでもお馴染みの話だが、ご存じのない方のために簡単にまとめさせていただく。

時は江戸時代の元禄。2人の大名から話は始まる。1人は下野国(群馬県あたり)の殿様・吉良上野介義央、もう1人は赤穂藩主・浅野内匠頭長矩。吉良は高家旗本という家柄で、浅野は外様の小国大名だった、ちなみに高家というのは、朝廷からの勅使を迎える際の礼儀作法を教える指南役のこと。高家というのは世襲的な役職で、足利幕府時代には駿州の今川家が務めていた。吉良家はこの今川家の子孫なのである。

さて、幕府は何年に一度か朝廷勅使を迎えるのだが、その時の接待役として浅野内匠頭が任命された。浅野は吉良に教えを請いながら接待準備を進めていくのだが、度重なる吉良のいじめに遭い(と一般的には言われているが)、あることがきっかけでついに大爆発。勅使がいるにも関わらず、江戸城の「松の廊下」で、吉良の額を斬ってしまったのである。

当時の武家諸法度という法律では、“喧嘩両成敗”ということになっていたが、浅野の所をわきまえない不祥事に将軍・徳川綱吉は激怒して、大名でありながら大した取り調べもないままに即日切腹にしてしまった。当然、赤穂藩も改易となり、後先考えないボスのために何百という藩士が浪人になってしまったのである。

で、そのうちの47人だけが藩主の代わりに敵討ちをすることを決めて、散々な苦労をした挙げ句、雪の降る夜中に吉良邸に押し入り、ついに吉良上野介の首を討ち取ることに成功したのである。で、この47人も「世の中を騒がした」という騒乱罪で全員が切腹。美談だけが残ったというエピソードだ。

町中には赤穂城の遺構が当たり前のように残り、そこで市民は当たり前のように生活している。僕にしたら羨ましい状況だ。

さて、塩がこの事件のきっかけと冒頭で書いたが、一説では吉良が浅野に塩を都合してくれと頼んだ時に、浅野が断ったのでイジメが始まったという。まあ、これには僕も異論があるのだが、赤穂は塩の名産地だ。塩なんて海がある所ならどこでも作れるんじゃないの? と思うだろうが、当時は今と違って塩作りが大変だったのだ。

一般的な当時の塩田は、まず砂浜に塩田を作り、そこに柄杓で海水を蒔く。乾いたら、また柄杓で海水を蒔く。それを繰り返して、ようやくある程度の塩が採れるわけだ。塩は人間の生活に欠かせないものなので、古から入手に苦労していた。生産も大変だった。これは「揚浜式塩田」と言われている製塩方法だ。ところが浅野家は画期的な塩田システムを開発したのだ。

それは塩田の中央に浸透圧サイフォンを作り、まずそれを開けて潮の干満を利用して塩田に海水を入れる。天日と風で乾したら、再びを海水を入れる。これを繰り返せば、マンパワーをかけずに塩を大量に作れるシステムなのだ。これを「入浜式塩田」と言う。赤穂以外にも7州でこのシステムを採用していたが、浅野家は当時、門外不出にしていたらしい。

吉良とのエピソードも、吉良が他の大名に頼まれて「浅野殿に塩田システムを聞いてはもらえまいか?」と言われて尋ねたら、浅野がNoと言ったというのがどうも真相らしい。で、吉良がイジメたというのも、どうも眉唾らしいが。詳細は後ほどまた書くが、今でも赤穂は塩の名産地として名高い。同時に、牡蠣の養殖も主要産業のひとつとなっている。

領民の重税の上に成り立っていた赤穂城

藩主が住んでいた本丸へと入る「本丸門」。廃城令で壊されていたが、1996年に復元された。

赤穂の町は実にきれいで整然としており、都市景観100選に選ばれてる。駅周辺は近代的な町並みだが、赤穂城へ近づくほど城下町の雰囲気を色濃く残していた。正直、一部の櫓が残っているくらい…とタカをくくっていた。ところが、城に近づくと、その周囲には立派な堀と石垣が残り、さらに城壁の内部にある町にも城の遺構がたくさん残っている。

一気にテンションが上がり大興奮なのだが、山岡巨匠にはこのことの凄さがどうも実感としてないようで、いつも通りのクールな視線が僕に向けられていた。城好きなら分かると思うが、復元されていない遺構が宅地化されることもなく、そのままの形で空き地になっているなんて奇跡だ。

さて赤穂城だが、茨城県笠間から移封となった浅野長直が、軍学者である近藤正純に設計を依頼して作った城郭だ。1648年から、何と13年もかけて完成させた。その後、一部を山鹿流軍学者の山鹿素行が改築したと言われている。隅櫓10、12の諸門がある立派な城で、5万3000石という小大名にしては過ぎたるものであった。

本丸には立派な天守台もあるが、さすがに幕府を恐れたのか完成しないままで終わった。とは言え、浅野長直という藩主は城オタクだったのか、何かと城郭を改良し、その度に莫大な金を注ぎ込んでいたようだ。もちろんこれは、すべて領民からの税金だ。

この当時は「四公六民」という税率が全国で一般的だった。つまり年収の4割を藩に収めるということだ。ところが赤穂藩の場合は逆で、「六公四民」だったというのだ。バカ殿が石高が少ないのに立派な城を造って赤字なので、さらに領民から搾取したのである。領民は浅野時代には大変な苦労をしたのである。

そのため、例の事件でこの地で三代続いた浅野家が改易になった際には、領民は餅をついてお祝いをしたという。とにかく悪い為政者だったということだ。

天守台から見た本丸の跡地。御殿の部屋割りが、地面に線で書かれていて面白い。

だがそれだけの苦労の上にできた城だけあって、明治の廃城令で壊されたと言え、その遺構から威容が窺い知れる。現在、本丸門、天守台、本丸櫓門、三ノ丸門、本丸廐口門などが復元されているが、その周辺の宅地を歩いていると、いたる所に遺構が残っている。往時はきっと美しい姿だったに違いない。

僕らが訪れた時はまだ桜も幾ばくか残っており、こうした景色を大石内蔵助(四十七士のリーダー)も観たのか…と感慨ひとしお。城はまだ復元されていない部分が多く、朽ち果てた石垣だけが残っている場所もあったが、市の事業で少しづつ工事しているようだ。たしかにこれがすべて直されると、素晴らしいものになるだろう。

だが、これと言って他に観光資源がないのに、赤穂浪士と城だけでそんなに人が来るだろうか。また血税を使って城を造る。まさに歴史は繰り返されているのかもしれない。

今もなお愛される赤穂浪士たち

大石内蔵助屋敷だった場所には大石神社が建立され、庭などは一般に公開されている。この長屋門で、大石は浅野内匠頭切腹の一報を聞いたと言う。

切腹した浅野内匠頭の遺恨を晴らすために立ち上がったのが、前述の四十七士だ。国家老の大石内蔵助をはじめとする、様々な階級の武士たちである。松の廊下での事件が国元にもたされた時、国元にいる藩士たちはすぐに城で会議を行った。喧々囂々した後、城に立て籠もって幕府と闘い、全員討ち死にするというような話にまとまった。

血判状も集めたのだが、人にはそれぞれ事情があって、死にたくない人間も必ずいる。離脱者や裏切りが出て、結局江戸詰めの藩士も含めて残ったのは、たったの47名。大石は城を枕に討ち死にする方針を転換し、密かに47名で吉良上野介の討つ準備を始めたのである。

討ち入りまでの1年9か月間に起こる各人のエピソードがそうとう面白いのだが、ページが足りないので、興味がある方は「忠臣蔵」を観ていただきたい。忠臣蔵はたくさん映画にもなっているが、個人的には長谷川一夫主演の大映版が一番好きだ。

この47名は赤穂よりも江戸でヒーローになった。当時の武家社会というのは平和ボケしており、武士よりも町人のほうがよほど武闘派だった。賄賂政治が蔓延しており、武士は武道よりも政治と華美な生活に明け暮れていたのである。それが主君の敵を取った武士らしい武士ということで、江戸の人々に拍手喝采を浴びたのである。

この事件は半世紀後に歌舞伎の題材となり、町人に愛された。四十七士は浅野内匠頭が眠る品川の泉岳寺に葬られたが、今も討ち入りの12月14日と4月1〜7日に泉岳寺で義士祭というイベントが行われている。ちなみに12月4日に赤穂でも、赤穂義士祭が開催される。赤穂の義士祭は111回目なので明治頃からやっているようだが、泉岳寺の義士祭はいつからやっているのか分からないという。だが、大規模な供養は江戸時代から行われているようだ。

参道に四十七士の石像がずらりと並ぶ大石神社。元国家老宅だっただけあって、本丸門のすぐ近くにある。

さて大石神社は、大石内蔵助と他46名の義士を祀った神社だが、資料館にはそれにまつわる様々な遺品が展示されている。江戸詰の赤穂藩士は、大名屋敷が火事になった際の火消し当番、いわゆる大名火消しだったため、四十七士も火消し装束で討ち入りを行った。この方が鎖帷子などの仰々しい装備が目立たないからであろう。その時に大石が使った軍配も展示されている。「ホンモノか?」と思ったのだが、まあ野暮なことを言うのはやめておこう。

こんなハナシがある。実は浅野長矩という人は、大層身持ちの悪い遊び人で、ほとほと家来も手を焼いていたというのだ。また他の大名からも「すぐにキレる」と評判の人で、どうも人格にも問題があったようだ。

一方の吉良上野介は、領民から慕われていた名君であり、自分の息子が養子に出た米沢・上杉家から融資を受けて、領民たちを守ったという記録も残る。

最近の研究では、吉良が陰湿なイジメをして、耐えに耐えた浅野が仕方がなく斬った…というハナシはあべこべらしいという説に傾きつつある。気が利かず、仕事をやらせても使えない…というのが、どうもリアルな浅野内匠頭像のようだ。

とは言え、47名の家来は立派に自分らの職務を果たしたわけだから、まさしく賞賛に値する。赤穂城を観ていると、段々「バカ殿」の象徴のようにも思えてくるが、城には罪がないので、フラットな心でご覧いただきたい。町も含めて、赤穂はなかなかの名所であった。

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