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日本再発見ジムニー探検隊
VOL.064
東京ブリッジコレクション
東京ブリッジコレクション

隅田川、神田川、荒川、日本橋川。河川や水路、堀割が網の目のように張り巡らされた東京。
その東京において、「橋」は重要なインフラなのである。
橋の博物館と言われる東京には、様々なカタチの橋が架かっている。
今回は、その中でも由緒ある橋をジムニーで巡ってみよう。

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東京の動脈を結ぶ「橋」

江戸城平川門に架かる平川橋。オリジナルは1614年に造られた木製橋だったが、現在のものは昭和63年に再建された木と石と鉄骨のハイブリッド。かつての江戸には、このような美しい橋がたくさん架かっていたにちがいない。

ご存じの通り、徳川家康が入府した頃の江戸は広大な湿地帯だった。江戸には日比谷入江、平川(小石川)、隅田川という3本の河川が南北に走っていた。治水という面から見ると決していい場所ではなかったため、家康は江戸を京都、大阪に負けない都市にするために、水路や河川の整備、埋め立てを積極的に行い、最終的には江戸城をぐるりと濠や水路が囲むように都市設計を行った。これがほぼ現在の東京の姿になっている。

東京の中心である江戸城(皇居)を何重にも囲むように濠や水路を作ったために、江戸の各所には橋が作られたのである。また隅田川にも江戸時代には幕府によって3つ、町人によって1つの橋が架けられた。明治に入ると、東京は再び都市設計をし直すことになるが、同時に橋も見直され、木製の前時代的な橋から石や鉄の橋へと掛け替えられた。

しかし、多くは関東大震災によって倒壊し、現在掛けられている都内の橋のほとんどは大正末期から昭和初めにかけて造られたものだ。明治期には外国製のものをそのまま取り入れるケースが多かったが、半世紀で日本は世界の土木工学を吸収し、どこにも負けない橋を架けていったのである。

小石川後楽園の中にある円月橋。1600年代前半に造られたとされている。

東京に江戸時代に掛けられた橋はないものか探してみたものの、オリジナルはなかなか見つからない。一見すると古そうでも、ほとんどが昭和以降に再建されたものばかりだった。リサーチを進めると、ようやく見つけました。クルマは走れないけれど。

その橋は、東京ドーム脇にある小石川後楽園の中にあった。円月橋と名付けられたその橋は、水戸藩二代藩主である徳川光圀の命で掛けられたという。明の儒学者である朱舜水によって設計され、当時の名工だった駒橋嘉兵衛が造った。円月橋は水面に映る姿が満月のように見えるために名付けられたが、何とこの橋は日本初の石橋だということだ。

ということで、今回の探検のテーマは「橋」。渡るというシンプルな目的だけのために造られたのに、かくも様々なカタチがある橋。都内に散見できる様々な橋の中から、とくにユニークで由緒のある橋を巡っていることにした。

人口の渓谷にかかるモダンな橋

昭和2年に完成した聖橋。鉄筋コンクリート製だが、日本のモダニズムの象徴のような橋だ。

御茶ノ水には都会にも関わらず大きな渓谷がある。この渓谷は茗渓とか御茶ノ水渓谷とか呼ばれているのだが、実はここは人口の渓谷である。江戸時代、いまの白山通りにあった小石川(平川)は、度々氾濫したという。これを防ぐために神田台を切り崩して神田川を造り、水を隅田川へと流してやったのである。

ちなみにこの渓谷を造った際に出た土は、日比谷入江の埋め立てに使われ、現在の有楽町駅付近や日比谷シャンテあたりができたわけだ。

JR中央線はこの御茶ノ水渓谷に沿うように走っており、途中に御茶ノ水駅が造られている。ホームに電車が入ると車窓から見えるのが、聖橋だ。僕はこの聖橋が大好きで、その姿を見る度に街角で美人に出逢ったような気分になる。

聖橋は昭和2年に完成した鉄筋コンクリート製のアーチ橋で、ニコライ堂と湯島聖堂のふたつの聖堂を結んでいることから「聖橋」と名付けられたという。この橋の設計は日本のモダン建築の旗手であった山田守と、アーチ橋のエキスパートだった成瀬勝武。一見するとコンクリートの塊のように見えるが、ソリッド感やスリットの美しさはモダニズムの何物でもない。

現在は植物が生い茂ってよく見えないのだが、実は聖橋は順天堂大学側にもうひとつ小さな橋(車道)が接続されている。この部分が合わさると、この橋のデザインの美しさがより際立つのだが、残念ながら現在は大アーチの部分しか見えない。それでも、この橋には他の都心の橋にはない魅力が感じられるのだ。

昌平橋架道橋はバックルプレートのままの鉄道橋としては日本最古のもの。

御茶ノ水駅からJRに沿って神田駅方面に走ると、やがて外濠通りにぶつかる。この左手に架かっている緑色の鉄道橋が「昌平橋架道橋」だ。僕もよくここを通るのだが、古めかしいガードだな…くらいに思っていた。だが、この昌平橋架道橋はバックルプレート(凹鈑)が床版にそのまま残る鉄道橋としては、日本最古の橋なんだという。

橋桁の中央部をよく見ると、この橋を造ったドイツ・ハーコート社のプレートが貼られており、この橋がドイツで製造された1904年の年号も記されている。現在はJRの中央線が上を通っているが、この橋を造ったのは明治期にあった私鉄・甲武鉄道だ。甲武鉄道の路線は、ほぼそのまま現在の中央線になっているが、この橋ができた当時は御茶ノ水駅から万世橋駅(後述)方面に向かって延伸している最中であった。

後に万世橋駅が出来て廃止されることになるが、この橋のレンガ造りの橋台(御茶ノ水方面)に、仮設の昌平橋駅があった。現在は数軒の飲食店が入っているのみで、ここに駅があったなどとは想像もつかない。昌平橋架道橋が完成したのは1908年(1915年という記録もある)となっており、その頃は甲武鉄道から国有化された後であった。

一世紀が経って電車は相当な進歩を遂げたが、いまなおほぼ当時のままでこの橋の上を多くの乗客が通すとは、何とも見上げた橋ではないか。皆さんも今度このあたりを通る時には、ちょっと見上げていただきたい。

名と違っていくども架け替えられた万世橋

上が万世橋、下がその上流にある昌平橋。時には上下の位置が逆転することがあった二つの橋。

「万世橋」と言えば、秋葉原の街には欠かせないランドマークだ。また肉好きならこの名前を聞くと、思わずヨダレが垂れてくるかもしれない。現在の万世橋は、1930年に完成した石とコンクリートが混成したアーチ橋だ。江戸時代にはこの少し上流に筋違見附があり、そこび筋違橋が架かっていたという。この橋は徳川将軍が上野寛永寺を参拝する際に使われた。

明治に入って筋違見附が壊されると、その石を使って造った二重アーチ橋の「萬世橋」が1873年に完成した。この橋は中央集権国家の時代らしく「よろずよばし」と命名されたが、世の中的に「まんせいばいし」と呼ばれるようになり、それが現在に受け継がれている。

さてここから話が少々ややこしくなるので、頭を整理しながら読んでいただきたい。萬世橋の上流には、江戸時代からあった昌平橋が架けられていたが、これは木製橋だった。度々架け替えられていたものの、1873年の洪水で流されてしまったのである。そこで架け替えまでの間、鉄橋が現在の万世橋の場所に架けられた。これは昌平橋と呼ばれていた。ここで昌平橋と万世橋の位置関係が逆転する。ちなみにこの昌平橋は日本初のアスファルト舗装が施された橋である。

1900年になると、一番初めに昌平橋があった所に橋が架けられそれが「昌平橋」に、萬世橋は「元萬世橋」に、鉄橋の昌平橋は「新萬世橋」にそれぞれ名称を変えた。その後、1906年に元萬世橋は撤去され、新萬世橋は巻頭大震災で被災。1930年に地下鉄開通と併せて、現在の姿に変わっている。

万世橋とは言ったものの、半世紀の間に昌平橋と行ったり来たりと実に忙しい。ただ、この辺の道路は皇居方面から上野方面に抜ける国道17号という要路のため、非常に重要な橋だったということなのだろう。最後の姿となってからは、万世橋も昌平橋も一世紀以上にわたって数え切れない人とクルマを通してきた。

万世橋の親柱はゴシックスタイルの風格あるもので、その街灯は100年以上経った今も、通行人の足元を明るく照らしてくれている。

万世橋駅のホームで朝食を

万世橋駅の遺構が今も残る、商業施設「マーチエキュート」の内部。

先ほどご紹介した昌平橋架道橋の神田方面の橋台には、かつて万世橋駅があったのは鉄道マニアにはお馴染みでなくとも聞いたことがあるだろう。だが、その万世橋駅の初代駅舎は東京駅なみだったのはご存じだろうか。万世橋駅は1912年に開業したが、初代駅舎の設計は東京駅と同じ辰野金吾が手がけ、その外観は東京駅そっくりであった。

万世橋駅には中央本線だけでなく東京市電も接続しており、一大ターミナル駅であった。そのため駅前には映画館や飲食店などが多数並び、銀座なみの繁華街だったというのは、今の万世橋界隈の様子からは想像もできない。

この立派な駅は残念ながら関東大震災で倒壊し、また中央線が東京まで伸びたことから、二代目の駅舎は初代の残存した基礎を流用して造った小さなものだった。三代目は1936年に完成し、これは交通博物館を併設した形で建てられた。この交通博物館は2006年まで残っていたので、行ったことのある人も多いだろう。

マーチエキュート神田万世橋にあるカフェ「N3331」は、万世橋駅の一部を活用している。

万世橋駅自体は、神田駅が完成したことで乗降客が激減して1943年に廃止されている。交通博物館も大宮に移転し、万世橋駅駅舎だった建物は2010年に完全に取り壊された。だが鉄道橋と橋台だった部分は残り、2013年に商業施設「マーチエキュート神田万世橋」として生まれ変わった。

この施設の中にある「N3331」というカフェは、かつての万世橋駅の交通博物館直結階段とホームを利用した店。何とホーム部分で飲食が楽しめてしまうという、鉄道ファンにはたまらないスポットなのだ。

僕も休憩がてら寄ってみたが、本当にホームの部分に客席がある。この店の特等席とも言えるテラス席は、左右を中央線が通り抜けるという絶好のロケーション。先には昌平橋架道橋にも見えて、橋マニアにもうれしい場所となっている。

夜になると飲酒もできるので、ジムニーを置いてゆっくり来るのもいいかもしれない。このカフェに入らずとも、ホームの反対側の展望スペースには行けるので、そこで在りし日の万世橋駅と万世橋の景色を想像してみるのも楽しい。

日本橋川にかかる二つの有名な橋

さて、今度はジムニーで神保町方面に移動してみよう。神保町界隈で有名な橋と言えば、やはり「一ツ橋」だ。一ツ橋は江戸城の北側の内濠(日本橋川)に架かっている橋で、すぐ目の前に第一項の写真の平川橋がある。一ツ橋は家康入府の頃は丸木の一本橋であったことから、その名前が付いたと言われる。

平川橋と一ツ橋の間には外郭門の一橋門が建てられており、その門内に徳川吉宗の四男に屋敷を与え、そこから御三卿のひとつである一橋家が始まった。ご存じの通り徳川最後の将軍である慶喜は、将軍を輩出できなき水戸家から一橋家に養子に入り、その後将軍になった。

現代で一ツ橋と言えば、僕の業界では小学館とその関連の出版社のグループを言う。この辺りに小学館や集英社などの出版社が集中しているためだ。余談だが、ライバルの講談社やそのグループ企業は文京区音羽にあるので音羽グループという。

一橋門は1873年に撤去されてしまい、現在の橋は1925年に架けられたものだという。石と鉄橋を組み合わせたハイブリッドな橋で、何とか風情を保とうしている努力が涙ぐましい。日本橋川にかかってる橋の多くは首都高の下になっているため、日陰でひっそりと佇んでいるイメージがあるが、往年はそれなりに威厳のある橋だったにちがいない。

さて竹橋から内堀沿いに出て、大手町を抜けて再び日本橋川に出ると、ここに日本を代表する橋がある。その名も「日本橋」。日本橋が初めて架けられたのは1603年のこと。家康の街道整備計画の起点として造られた。江戸は火事の多い町だったこともあり、この日本橋も何度も焼け落ちているらしい。何と明治維新まで10回も焼けたというから受難の橋である。

明治になると肥後の石工である橋本勘五郎によって、石の日本橋が架けられた。そして1911年に、現在の日本橋が架けられた。日本橋は首都高の下になっているためなかなかその全容が分かりづらいのだが、立派な二重アーチの橋の上には片側5本、計10本の装飾柱がある。その柱に鎮座しているのが、映画や小説で有名になった「麒麟」だ。

麒麟は伝説の動物で、1000年生きて、足跡は真円、曲がる時は直角というまるでフリーメイソンのマークのような設定であることから、きちっとした橋のイメージと相まって採用されたのかもしれない。日本橋の麒麟には一点変わったところがある。実物を見ると、麒麟というよりは西洋のドラゴンのようだ。その理由は翼だ。麒麟はビールのラベルを見ていただくとわかるが、本来は翼がないという設定だ。だが、この日本橋からすべての道や交通が飛翔する、という願いを込めて翼が付けられた。

麒麟の他に、獅子も別の飾り柱にいるが、こちらは東京市(東京都)の紋章を手にしている。最初の計画では紋章の入った盾を持たせることになっていたが、バランスの問題で東京の紋章をそのまま持たせることになったらしい。

日本橋の中心には道路元標が埋め込まれており、日本の代表的な国道の距離はここから始まり、ここで終わる。例えば郊外に行くと東京まで〇kmというようなインデックスがあるが、これは日本橋の道路元標までの距離になっている。ちなみに日本橋を始点にしているのは、国道1号、4号、6号、14号、15号、17号、20号の7本だ。

橋に埋め込まれている道路元標は歩行者天国などの時にしか見られないため、そのレプリカが橋の袂に展示されている。

橋の上を歩くと、欄干や飾り橋に黒いシミ、そして石畳に欠けが見られるが、これは1945年3月10日の東京大空襲時の焼夷弾の跡だ。日本を代表する橋は東京の中心で、100年間ずっと日本の歩みを見てきたのである。

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