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15.01.23

【vol.32-2】日本再発見ジムニー探検隊>>ネギだけじゃない中山道の宿場町[熊谷・深谷]

熊谷を後にして、ジムニーは長ネギが香る田園地帯を走って深谷へと向かう。
深谷もまた、昨今では長ネギが有名な以外はこれといってトピックがない。
だが、実際に訪れてみると、最近話題の東京のランドマークと深い関係があったのである。
パート2では、深谷探検の模様をお伝えしよう。

幻の城下町だった深谷

かつて深谷城があった場所は現在、公園になっている。写真の石垣や模擬櫓はあくまでも雰囲気。隣の富士浅間神社に遺構の一部が残っている。

長ネギ畑を駆け抜けると、深谷の街並みは実に現代的になってくる。イマドキのチェーン店が軒を並べ、まったく昔の風情がないように思える。駅に向かう途中、「深谷城趾公園」があった。深谷城はパート1でもご紹介したが、深谷上杉氏の居城だった。豊臣秀吉によって開城され、その後徳川方の譜代・親藩大名が入城した。ところが1627年に深谷藩が廃止となり、1634年に廃城となっている。

深谷城は南北600mの城域があったと言われる平城だ。実際に石垣や塀などはなく、ちょうど川越城のような堀と土塁に囲まれた平城だったようである。現在、その一部が公園横の富士浅間神社と深谷小学校に残っている。その遺構を見るかぎりでは堀などは浅く、水田のあぜのような感じであったのかもしれない。

江戸初期には廃城になってしまったため、深谷は早々に城下町でなくなってしまったわけだ。だが、江戸と都を結ぶ主要街道・中山道の宿場町であったから、かなり栄えたようだ。また地場産業として窯業と養蚕が盛んだったようである。

さて、とりあえず地元の情報を入手すべく深谷駅に向かうと、その駅舎に驚かされた。なんと、そこには東京駅があったのである。奇しくも2014年12月に、東京駅は竣工100周年を迎えたばかり。これはちょっとした深谷のトピックだ。

東京駅を摸して造られた深谷駅。深谷で東京駅建設に使われたレンガを造ったことから、こういうデザインになったらしい。

なぜ深谷駅が東京駅なのかというと(ややこしいが)、東京駅の赤レンガをここ深谷で製造したからという理由らしい。地方に似つかわしくない威容にはちょっと笑わされたが、深谷市民の皆さんはいたって真面目なのだろう。さすがに中は近代的な造りだったが、外観はたしかに東京駅ルックだ。なんだかTDLにいるみたいで面白い。

駅前には、渋澤栄一の銅像が建っている。渋澤栄一はご存じの通り、日本資本主義の父と言われる人物で、ここ深谷で生まれ育った。元々は幕臣だったが、維新後は官僚となり、第一銀行設立や各企業設立に携わった人である。なんとこの人は作った会社は500以上と言われ、その中には東急やサッポロボール、王子製紙といったお馴染みの企業が数多くある。「〇〇細胞はありまぁす」の理化学研究所も、翁の設立によるものだ。

深谷市には「ふっかちゃん」というゆるキャラもいたりする。駅近くで動いているふっかちゃんを見たが、何と頭に深谷ネギが刺さっている。ふっかちゃん横丁にはオフィシャルショップもあるので、ゆるキャラマニアの方はチェックしていただきたい。

日本を支え続けた深谷のレンガ

旧日本煉瓦製造株式会社の事務所(上)と変電所(下)。文化財として深谷市が保存している。

深谷駅のレンガの話が出てきたので、少し深谷のレンガ作りについて探検してみよう。日本は明治維新後、欧米列強に追い付くためにそれまでの文化やライフスタイルを捨てて、西洋文化を積極的に取り入れたのは周知の通りだ。その中で重要な事業となったのが、西洋型の都市を造ることである。そのコアとなったのが、レンガだ。

木造建築からより風格のある建築に必要なのは、当時の技術ではレンガが必要だった。ところが官営にするのは財政的に厳しいということで、深谷出身の実業家・渋澤栄一に泣きついた。渋澤は煉瓦製造会社を作るべく国と埼玉県に申請を行い、その結果できたのが「日本煉瓦製造会社」である。1888年、ドイツから技師フリードリッヒ・ホフマンを招聘し、同社はレンガ製造を開始した。

日本煉瓦製造会社が製造したレンガは、実にいろいろな建築に使われている。前述の東京駅をはじめ、赤坂離宮、東京大学、日本銀行旧館など、日本を代表するランドマークにそれが使われている。万世橋高架橋や碓氷峠の鉄道施設なんていうのにも使われた。

深谷市の北端に、日本煉瓦製造会社の跡地がある。そこには創業当時からある事務所(ホフマンの住宅としても使われた)や、旧変電所設備が残っている。日本煉瓦製造会社は平成までレンガを作り続けたが、安い海外製のレンガに押されて、2006年に自主廃業。120年間の歴史に幕を閉じている。

レンガを運ぶために作られた専用線の遺構。レンガを運ぶために作られた専用線の遺構。ポーナル型プレート・ガーター橋というらしい。

さて、同社で作られたレンガは全国に流通していったわけだが、当初は荒川を使ってレンガを運び出していた。だがそれも間に合わなくなり、明治28年に会社敷地から深谷駅まで4kmの区間でレンガを運ぶ専用鉄道が敷設されたのである。これは日本初の専用線らしい。

もちろん現在は線路はなく、線路跡は市民が散歩やジョギングをする遊歩道になっている。だが、遊歩道脇の公園に当時使っていた鉄橋があるというのでジムニーで向かった。水田のど真ん中にある公園の端に、「ポーナル型プレート・ガーター橋」というイギリス人技師が考案した鉄橋がひっそりと保存されていた。

この鉄橋は川が増水した時に流されないように考案されたものだという。ポーナル型プレート・ガーター橋はここ深谷だけでなく、明治28年から34年にかけて近代産業革命期の日本全国で作られたらしい。

富国強兵のスローガンのもと、大量のレンガが日本全国へと運ばれていった道。いまはその横で、ママ友たちが弁当を広げておしゃべりに興じている。まさに「つわものどもが夢の跡」である。

日本経済の礎を作った渋澤栄一

渋澤栄一の生家「中ノ家」。渋澤家は深谷の豪農であった。

僕は偶然、小学校の時に澁澤栄一の生涯を描いた長編ドラマを観たので、何となくだがその人を知っていた。だが、現代人の多くは「澁澤栄一?」って感じではなかろうか。すでに書いたように、渋澤栄一は日本きっての実業家で、日本の資本主義を築いた人である。

澁澤栄一は1840年に、渋澤家の長男として生まれた。渋沢家は深谷の豪農で、栄一が生まれた分家は「中ノ家(なかんち)」と呼ばれ、本家は「東ノ家」と呼ばれている。農家と言っても、原材料の仕入れや販売などを行っていたため、幼少から算盤をはじくような環境で育った。これが後の超行的な才能に結び付いたと言われている。

偉人というのはえてして双葉より芳しく、渋澤栄一も例外ではなかったようだ。文武両道に優れ、剣術は神道無念流を習得。さらには江戸に出て、千葉道場で北辰一刀流も学んでいる。この千葉道場において、尊王攘夷思想に触れ、青年時代の栄一翁は尊王攘夷派志士として活動している。高崎城乗っ取りを計画したこともあるという、かなりの強硬派だ。

京都に上って尊王攘夷活動を続けるが、「文久の政変」によって活動が行き詰まり、なんと知人の紹介で一橋慶喜の家臣となる。そして、慶喜が将軍職に就くと幕臣になるという大どんでん返し。幕臣時代にフランスに遊学するも、渡欧中に大政奉還。慶喜のいる静岡藩に帰藩するも、慶喜自身の勧めもあって起業するが、直後に大蔵省入りを果たすことになる。

官僚時代には多くの銀行設立に尽力するが、退官後には民間企業の創業に手を貸している。もし、この人がいま生きていたら、日本経済界のとんでもないフィクサーであったろう。

第一銀行行員たちが渋澤栄一の喜寿を祝って建てた誠之堂。世田谷区内にあったが、取り壊しの計画を機会に“里帰り”した。

栄一翁の生家である「中ノ家」は、現在も当時のまま保存されている。上の写真を見ていただければ分かるが、農家と思えない豪邸だ。渋澤家は養蚕業も生業としていたので、昔は茅葺きで2階には蚕棚があったのかもしれない。

気になったのはこの家がある地名で、なんと「血洗島」というのだ。僕は家のでかさよりも、そちらのほうが気になって仕方がなかった。きっと「八つ墓村」や「獄門島」みたいなドロドロした言い伝えがあるに違いない。で調べたら、「赤城の山霊が他の山霊と闘った時に腕をもがれ、その傷をここで洗った」とか「八幡太郎義家の家臣が、戦で斬られた片腕をここで洗った」とか、案の定血なまぐさい言い伝えが伝わっているようだ。

この家から少し離れた公民館の敷地に、栄一翁が頭取だった第一銀行の行員が、喜寿のお祝いに栄一に贈った「誠之堂」というレンガ造りの洋館がある。この建物は、世田谷にあった第一銀行の保養施設・清和園にあったが、その敷地は後に聖マリア学園になった。学校が校舎の増築をするために建て壊しが予定されていたが、それではもったいないということで、レンガと渋澤栄一つながりで深谷市が引き取った。

大正5年の建築だというが、いまこの時代だからこそお洒落だ。宮崎駿作品に出てきそうな佇まいである。中にはダイニングルームのようなスペースしかないのだが、渋澤栄一はここで食事や酒を楽しんでいたのかもしれない。

消えゆく街道の面影

旧七ツ梅酒造跡にある空間。アートギャラリーや居酒屋などになっている。

再び深谷駅方面に戻ってみよう。深谷市内には国道17号、高崎線、関越自動車道、そして上越新幹線の4つの動脈が通っているが、県道264号線がかつての中山道だった道である。ご存じの通り、中山道は江戸から京都に向かう主要街道だった。同じく江戸と京都を結ぶ街道に東海道があったが、歴史的な人物などの資料を見ると、中山道で京都と江戸を旅する場合が多い。なぜなのか。

それは中山道には大井川や伊勢湾の渡しと言った渡し場がなく、安定して往来ができるからだったらしい。たしかに渡し場で何日も足止めされては、予定や予算がある場合はかなわない。また要人の場合は警護も楽になる。

深谷にもそんな中山道が栄えた時代の面影が、うっすらと残っている。国道筋はチェーン店が立ち並び、典型的な地方の町の様相となっているが、県道沿いは置き去りされてしまったような感じだ。明らかに古いという建物はもはや数軒しか残っておらず、そのほとんどは昭和初期から中期に建てられた店が多い。

関越道と新幹線によってただの“通過点”になってしまっている深谷では、なかなか昔の活気を維持するのは難しいだろう。少し離れると新興住宅が多く、かつての宿場町は高崎や大宮、都内に通勤する人々のベッドタウンへと変貌しつつある。

糸屋製菓店の「翁最中(210円)」。見た目は不気味だが、美味い!

深谷宿はかつて大変な賑わいを見せたというのが、それには理由があった。それは80軒あったとされる宿のほとんどに、飯盛女を置いていたことである。飯盛女とは給仕をするという名目の遊女だ。また遊郭もあったという。隣の熊谷宿には飯盛女がいなかったため、多くの旅人はわざわざ深谷宿に泊まっていたらしい。

道沿いに糸屋製菓店という和菓子屋があって、翁最中の文字が目に入ったので暖簾をくぐった。翁面の皮に包まれたちょっと不気味な最中だが、試しに1個買ってみると、これが美味い。甘さがとても上品で、さすが明治41年創業老舗の味である。

その少し先に滝沢酒造という蔵元があって、そこの「菊泉」という酒が深谷の地酒だという。こちらはお土産にして、後日正月の屠蘇で飲んでみたのだが、これもまた淡麗辛口で美味。かつての栄華によって育てられた味ゆえに、深谷の味はレベルが高いのかもしれない。日本酒好きの方にはおすすめできる逸品だ。

陽が落ちると、深谷は一気に寂れた町の表情となった。となりの本庄市に比べると大きな工場がないため、やはり活気という点では格段に違っている。だが、この町がかつての日本の建築を支えたかと思うと、今の雰囲気はとくに寂しいものがある。地方の町に行くと毎度想うことだが、東京・大阪にすべてが集中している今の日本は、やはりどこか正常ではない。地方に産業や文化が分散していたからこそ、日本全体で成長できたはずなのである。アベノミクスも結構だが、地方再生にもっと目を向けてほしいと、心から願ってしまう。

そんなことを教えてくれた熊谷・深谷を探検したが、皆さんもぜひこうした「近くの町」に目を向けていただきたい。温故知新。古いものや文化は観光資産というだけではなく、行き詰まった現代日本の打開方法をもしかすると教えてくれるかもしれないのだ。そんな心の目を開くこともまた、探検だと僕は感じている。

<文・写真/山崎友貴>

熊谷・深谷探検ギャラリー

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