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日本再発見ジムニー探検隊
VOL.042
駿州6宿漫遊ドライブ
駿州6宿漫遊ドライブ

丸子宿を過ぎると、東海道はいよいよ駿州の行政府・駿府へと入る。
駿府にある宿場町だから、「府中宿」と呼ばれ大層賑わった。
徳川家康が愛したこの町は、奇しくも江戸幕府終焉に向かうきっかけを作った町でもある。
駿州6宿を巡る探検もいよいよ後半へと入る。

画像をクリックすると拡大&情報が見られます(スマホ、タブレット一部機種を除く)。

家康が作った幕府もうひとつの拠点・静岡

静岡の街の中心にある駿府城跡。本丸や二ノ丸があった場所は公園として整備されている。

駿府とは、現在の静岡の街のことだ。律令制によって駿河国の国府が置かれた駿府だが、室町時代から戦国時代にかけて駿河の守護職だった今川氏の城下町として栄えた。今川義元が討たれた後は荒廃したが、徳川家康によって再び整備され栄えることとなる。ところが豊臣秀吉によって江戸に移封されたことで一時は中村一氏が城主となるが、家康が大御所となり再び城主に返り咲く。

19歳まで駿府で人質生活を送った家康ゆえにこの地への思いが強かったとも言えるが、京の中央政権から独立した施政を行っていた今川義元を見て、この地こそ京も江戸も支配下に置ける政治ができると踏んだのかもしれない。パート1で静岡市民は一般的な日本人としての嗜好を持つと書いたが、こうした家康の政治姿勢が現代の静岡市民の感性に繋がっているとしたらおもしろい。

さて府中宿は駿河城のすぐ下に作られた宿場で、東海道で唯一花街が許された宿場であった。そのため、かつては東西の入口に木戸があったとされる。花街を作ることで夜間の通行が規制でき、同時に駿河城のセキュリティが強化できると考えた家康はさすが天下統一を成し遂げた人物だ。

今では静岡の駅前繁華街となっている府中宿だが、商業ビルの1階に西郷隆盛と幕臣・山岡鉄舟の会見の碑が建てられている。勝海舟は江戸城を無血開城するための下準備として、山岡鉄舟を駿河に駐屯していた官軍の元へと送った。鉄舟は清水次郎長や地元民の協力の下、西郷隆盛と会見し、江戸城無血開城の礎を作った。徳川家康が江戸幕府の権力の礎を築いた駿府で、江戸幕府瓦解のきっかけが作られたのは皮肉な話である。

清水マリンパーク内に残されている「清水港テルファー」。近代の貴重な産業文化財だ。

賑々しい府中宿を出ると、いよいよ安倍川の川越である。この川岸にはその名の付いた「安倍川餅」が今も売られている。安倍川の上流には戦国時代から江戸時代にかけて梅ヶ島金山があった。茶屋の店主はその金山にかけて、家康が立ち寄った際に「安倍川の金な粉餅」と称して出したのが由来とされている。きな粉を砂金に見立てたという洒落を家康は大層気に入って、自ら「安倍川餅」と名付けたらしいが、ユーモアのない家康らしい余計な“CI”である。

旧東海道はやがて江尻宿へと入る。江尻宿は現在の清水で、町中を流れる巴川の河口(尻)にあったことから江尻と名付けられた。江尻宿は江戸に物資を運ぶ流通拠点として大層反映したようだが、空襲により焼失して今はその名残はほとんどない。清水次郎長の生家などは現存するが周囲には昭和の商店街が続くのみである。

諦めて次の宿場へ移動しようとした時、隊長が抜群の嗅覚で面白い遺構があることを突き止めた。「清水港テルファーって言うのがありますよ」「て、テルファー??」悪魔の親戚みたいなその名前のものは、清水港にある商業施設「清水マリンパーク」内にあるという。

清水港テルファーは、清水マリンパークのある敷地に国鉄清水港線清水港駅があった時代の施設。運んできた木材や石炭を船と列車に積み下ろしするためのクレーンで、昭和3年に造られた。このテルファー、何と清水港以外には神戸港と名古屋港しかなかった貴重な機械で、現在は清水港にしか残っていない。

写真のように非常にメカ好きの心をゲットするデザイン。これがフル稼動していた時代の日本はさぞ元気だったのだろうと、眺めながらちょっとセンチメンタルに気分に。夜間にはライトアップされ、この辺一体がいい雰囲気になるようなので、彼女や奥様と探検する方はぜひお立ち寄りいただきたい。隣接する「エスパルスドリームプラザ」には寿司屋横丁もあり、グルメスポットとしても要チェックだ。

浮世絵にも描かれた富士山絶景スポット

旧東海道の車道部分。ミカン畑に囲まれたのどかな風景が続く(上)。東海自然遊歩道は旧東海道の名残がある(下)。

江尻宿を越えると、やがて旅人は興津宿へと入る。人々はここで旅装を整えて、駿州6宿のもうひとつ難所である「薩た峠」へとのぞんだという。興津は甲府へ向かう身延街道との分岐点であり、交通要衝の地であった。身延山に参詣する人々や山梨方面に塩を運ぶ人々で賑わったようだ。明治以降になると伊藤博文や井上馨などの政府要人の別荘が建ち、避寒地として全国に知られていたらしい。

残念ながら興津宿も江戸の名残をほとんど残しておらず、唯一寺社にその残光が垣間見えるくらいである。陽も傾いてきたので、我々は先を急ぐことにした。興津を過ぎると、東へ向かう旅人はいよいよ薩た峠を越えることとなる。

薩た峠は断崖を通る難所だったが、富士山が美しく見える絶景ポイントとして知られていた。歌川広重は「東海道五十三次」と「富士三十六景」のふたつのシリーズにおいて、薩た峠から観た富士山を描いている。よほどここからの景観が気に入ったのであろう。

薩た峠は、現在クルマでアプローチすることができる。国道1号バイパスを東に進んで、由比の駅に入る側道に入り、間の宿(後述)の街中を通って峠を登る。途中の道はジムニーのサイズがようやくの箇所も多く、かつて旧東海道の一部だったことを実感できるだろう。周囲はミカン畑が広がり、眼前には駿河湾のさざなみが広がっている。

薩た峠には駐車場とトイレが整備されているが観光地というわけではなく、知る人ぞ知るスポットという感じだ。駐車場から少し歩くと、広重が描いた場所とされる場所に展望台と説明看板が建てられている。ここは富士山撮影スポットとしてメジャーな所でもあり、平日なのに多くのアマチュアカメラマンが集まっていた。

薩た峠からみた富士山。広重を感動させた風景だ。

駐車場から続く道は東海自然歩道の一部として整備されており、かつての旧東海道の雰囲気を色濃く残している。

広重が歩いた時代にはミカン畑はなく、眼下の東名高速や国道1号バイパスがある部分も海だったのだろうが、東に見える断崖と富士山だけは百年以上経ったいまも変わることはない。

残念ながら、この日は春霞に隠れて富士山は頭しか見えなかった。過去に撮った写真で風景をご紹介するが、条件が良ければ朝と夕にそれは美しい富士山を観ることができるという。

きっと西から来た旅人は突然現れる富嶽に心を打たれ、東から往く旅人は雄大な景色を見ながら坂東に別れを告げたのであろう。江戸の旅は命がけであり、もしかすると二度と観られないかもしれないと思いながら観る富士山は特別なものであったに違いない。

ちなみにコチラをクリックすると、現在の薩た峠の富士山の様子が観られるのでお楽しみいただきたい。

駿州の難所・薩た峠を越えると間の宿に入り、旅人はひと息つく。残る宿場は由比宿と蒲原宿。我々も今宵の寝床を求めて、そろそろ宿場に入ることにしよう。

なぜここだけ? 由比の桜エビ

薩た峠を下りた所にある間の宿。白壁の建物は山岡鉄舟が匿われたという「藤屋・望嶽亭」。

峠を下りるとすぐに「間(あい)の宿」がある。間の宿とは難所の前後にある、幕府非公認の宿場のことだ。難所を越える前、越えた後に休憩したいという需要に応えて自然発生的にできたというが、幕府の認可を得ていないため旅籠のように客を泊めることができない。とは言えそれは建前で、実際にはこそっと泊めていたようである。

由比宿の手前にある間の宿は、現在も往事の町並みがほぼそのままで残る(トップ写真)。もちろん商いを続けている所はほとんどないが、この空間だけタイムカプセルで残ってしまったかのようだ。すぐ脇を走る国道1号や東名高速とは対象的なコントラストである。

ここには新政府と接触を図るべく旅した山岡鉄舟が、捕縛の手を逃れて隠れた「藤屋・望嶽亭」という旅館が今も残っている。この時、山岡鉄舟をサポートしたのは清水次郎長らしい。男気溢れるエピソードが多い次郎長だが、ここでもその人柄に触れることとなる。

間の宿は由比駅から近いこともあり、ここが由比宿だと勘違いする人が多いようだ。実際、我々もその手の本で確認するまで、すっかりここが由比宿だと思い込んでいた。由比駅前の道が旧東海道だが、そこをゆっくりと走っているとそこかしこに桜エビの看板が見られるようになる。そう、由比と言えば全国的に有名な桜エビの町なのである。

台湾産とは違い、甘みが強い由比の桜エビ。絶品。

あと半月もすると桜エビの春漁が始まる季節で、由比はにわかに活気を取り戻す。全国に流通している桜エビは、ここ由比と隣の蒲原、そして大井川で漁獲したものだ。桜エビは東京湾や相模湾でも穫れるのだが、漁業の営業許可を静岡県だけが認めているため、100%駿河湾産なのだという。

聞いて驚いたのだが、日本で桜エビ漁が許可されている船は120隻しかないらしい。最近では台湾からの輸入も多いのだが、やはり味がまったく違うようだ。毎年5月3日は由比の港で桜エビまつりが開催され、新鮮な桜エビ丼などを食べることができる。

隊長と僕は泊まった宿で桜エビをいただいたが、刺身、天ぷら、そして鍋のすべてが絶品だった。こんな小さな海老なのになぜここまで香りと甘みが出るのか、実に不思議。

僕らが食べたのは、10月から12月の秋漁で獲った冷凍ものだと思うが、味はほとんど落ちていなかった。だが、獲れたての生はさらに美味いはず。この記事を読んだ方は、ぜひ食べに行っていただきたい。ちなみに遠方でちょっと…という方は、「由比港漁協」のネットショップで買うことができるので一度ご賞味を。

小規模ながら歴史を感じられる由比宿

由比宿の本陣跡。中には東海道広重美術館などの施設がある。

日本橋から16番目の由比宿は、非常に小さな宿場だったという。幕府の命で宿場には100名の人足と100頭の馬を常備しなければならなかったが、それが大変な負担だったようで、幕府に軽減を嘆願していたようだ。

そんな歴史があった由比だが、現在は駿州6宿の中でも最も立派な本陣跡の施設があり、そこにはこれまた立派な「静岡市立東海道広重美術館が建てられている。この広重美術館、入るまでは「ん〜、ハコモノ行政の匂いがする」と思っていたのだが、実際は素晴らしい施設だった。

お茶漬けのオマケでもお馴染みの「東海道五十三次」をはじめ、広重の代表作が多く収蔵されているのである。しかも後年の刷りではなく、当時の版のものが多く、改めて浮世絵の美しさに心奪われる。写真がなかった江戸時代に、浮世絵はまさに庶民の好奇心を満足させるメディアだったに違いない。

美術館の脇には明治天皇が3度にわたって休息したという「御幸亭」が復元されている。日本の主要街道には明治天皇が休息したとされる場所が多いが、馬車で移動した当時の旅はやんごとなき方にはさぞ大変であったろう。御幸亭の北側には小堀遠州作と言われる枯山水が残っており(一部復元)、入場料を払って入ると庭を見ながらお茶を飲ませてくれる。こじんまりとしているが、これがなかなかいい庭なので、時間があるなら拝観をすすめする。

由井正雪の生家は、いまも染物屋を営んでいる。

本陣跡の前には、慶安の変で有名な由井正雪の生家「正雪紺屋」がある。由井正雪は、ここ由比の紺屋(染物屋)の子として生まれた。江戸に奉公に出た際に楠木流の軍学を学び、そのまま楠木家の養子となった。大層な才覚の持ち主だったようで、将軍家や大名から仕官の声が多数かかっていたという。

だが江戸初期は多くの大名が改易・減封となり、日本中に浪人が溢れていた時期。正雪のもとには幕府の政治に否定的な浪人が多数集まり、やがて幕府転覆を企てることとなる。これが世に言う「慶安の変(正雪の乱)」だ。計画は事前に幕府に漏れて結局正雪は自害するが、遂行されていたら別な日本になっていたかもしれない。

正雪紺屋は現在も営業しており、中川政七商店にも負けない粋な染め物が売られている。また由比の地酒「正雪」は口当たりが良く、お土産にオススメだ。桜エビをつまみに、ぜひ一杯やっていただきたい。

由比宿は手前の間の宿ほど昔の町並みが残っているわけではないが、見所は多い。ぜひ半日ほど時間を取って、じっくりと回っていただきたい宿場町だ。

陰影がいまも美しい蒲原宿

鎌倉時代に整備された蒲原宿。いまは静かな住宅街だ。

蒲原宿は日本橋から15番目の宿場で、駿州の東の玄関口である。富士川を無事越えた旅人はここで息をつき、江戸に向かう人は川越えの準備に取りかかる。富士川が増水すると足止めをくらうため旅籠の数45軒、その他の木賃宿など509軒と随分大きな宿場だったようだ。

蒲原宿は新蒲原駅近く、県道396号線から北側に一本外れた道沿いにある。旧東海道は赤い舗装が施されて立派だが、蒲原宿周辺は閑静な住宅街という風情だ。だが、道沿いには格子の立派な木造建築が残り、それが何とも言えない美しい陰影を織りなしている。

宇津ノ谷集落や由比の間の宿ほど古い建物が残っているわけではないが、蒲原宿が一番古の雰囲気が残っているように感じるのはなぜだろうか。江戸期には人や馬、荷車などが多く往来して賑わったのだろうが、いまは現代の飛脚・佐川急便のトラックが1軒1軒配達に回っているくらいだった。

取り壊し寸前だった建築を修復した旧五十嵐歯科医院。

蒲原宿には貴重な有形文化財がいくつか残っているが、中でも興味を引くのが旧五十嵐歯科医院だ。その名からも分かるように、かつては歯医者さんだった建物。受け継ぐ人がおらず廃屋になっていたが、取り壊し寸前に貴重な建築であることが分かって、行政が1億円以上をかけて修復した。

莫大なお金をかけて保存しただけあって、中は実におもしろい。外観は和洋折衷の建築だが、実はこの建物は江戸期の町屋作りを何軒か合体させてリノベーションしているのだ。ご存じの通り、町屋は入口が狭く奥に長い造り。これは“間口の広さに対して税をかける”という幕府に税制に対して考えられた「抜け道」だが、近代の生活になるとやはり使いづらかったのだろう。

中に入るとベースにとなる1軒の町屋がそのまま間取りとして残っており、その両脇を改築していったことがよく分かる。現代の医院なら、下を診察室にして階上を住居にしそうだが、この建物は2階が診察室になっているのが面白い。欄間やふすま絵などが非常に豪華で、やはり今も昔も歯医者はリッチなようだ。

入場は無料で、気のいいおばさんがいろいろ説明してくれるのでおもしろい。ラッキーだとお茶を振る舞ってくれるようだ。近くの志田邸も国の有形文化財で、見所スポットとなっている。

静岡市内にある宿場は蒲原宿で終わり、富士川を渡ると富士市内の吉原宿へと街道は続く。そして、原・沼津・三島と越えて、東海道最大の難所である箱根峠へと向かうわけだ。

今回は静岡市内にある6宿を探検してみたが、旧甲州街道同様に日本の大動脈を1本外れた場所にいまだ日本の歴史は脈々と受け継がれていることが分かった。忘れ去られようとしていた町が地元民の力で掘り起こされ、再びその魅力が見直されているのは日本が生まれ変わろうとしているプロローグなのかもしれない。

<文・写真/山崎友貴>

岡部宿の旅籠「柏屋」。昔の旅籠がそのまま残っている。蔵の中で食事もできる。
日本初の有料トンネルだった「明治トンネル」。徒歩で通過できる。
宇津ノ谷峠の西側の分岐。左が旧東海道で、右を行くと古道の蔦の細道。
軍道として造られた旧東海道は、道もフラットで歩きやすきできている。
宇津ノ谷集落にある十割蕎麦きしがみ。駐車場もある。
国道1号バイパスのトンネル。左が昭和のトンネルで、右は平成のトンネル。
静岡駅繁華街の一角にある西郷と山岡の会見の地碑。
清水のエスパルスドリームプラザには海鮮物がいっぱい。ホタルイカの干物が美味い!
桜エビは生も美味いが、やはりかき揚げが最高だ。おためしあれ。
由比宿本陣跡の御幸亭にある遠州流の庭園。できるならここで「正雪」でも飲みたい…。
静岡市立東海道広重美術館は、広重作の本物の浮世絵が多数展示されている。
外観は和洋折衷、中は町屋造りという旧五十嵐歯科医院の建物。